さっきの話の続きです。


松下幸之助氏や手塚治虫氏の生きていた時代と比べて、私たちが本来の「幸せ」に近づく為の遠回りになっている事は、沢山あるけれど、一番大きいのはコレかな?と思っていることがあります。



それは、目の前にやってきたことを粛々と受け止める事が出来るか、出来ないか。


という事。


松下幸之助氏は、自著の至る所で「あるがままに受け止める。」その必要性を説いていますが、それが私たちはなかなか出来ない。

彼の言う通り、「あるがまま受け止める」ことさえしてしまえば、各個人の中に存在するエゴは急速に力を緩めていきます。


しかし、私たちには、それがなかなか出来ない。しづらくなっている。



さて、それはどうしてでしょう。




今の時代は、多くの選択の自由が溢れています。


その自由によって、私たちはいかようにもなれる恩恵を受けている反面、恒常的に感じることの出来るはずの幸せを遠退けてしまっているように思います。


更には、マスマメディアを中心に繰り広げられる「幸」、「不幸」の基準の流布。その常識的とも思われる思考判断の連続によって、現実をあるがままに受け止めるということがしづらくなってしまっているとも言えます。



日本は、戦前、戦時中、戦後によって、大きく時代が変化しています。


松下幸之助氏が産まれたのは、明治27年でした。私の祖父母が産まれた時よりも、少し時代をさかのぼりますが、多方祖父母の時代と同じであったとしていいでしょう。


昔話の一貫として、祖父母の生きた時代のことを幼い頃に聞かされた事がありますが、結婚一つとっても、今と昔では、その価値観たるものが全然違って。


祖父母の時代は、「顔も知らない人と結婚する。」事が特に珍しい事ではなかったようで。。。


実際に私の母方の祖母は、結婚式の時に、生涯共にする旦那さんの顔を初めて見たと。

父方の親戚のおばあちゃまもやはり同じように、結婚するまで、その方を見たことなかったと。


今じゃ考えられないし、もしそんな事が横行するのなら、裁判だの虐待だの、激しい世論の火種になりそうですが、そう遠くない日本のどこかでは、あまりにそれが自然の成り行きとして行われていた訳です。


そして、おばあちゃんたちは、その事実に対し、「幸」、「不幸」を思考する事もなく、「そういうものだ。」と、あるがままにその現実を引き受けていたのです。


これが、この「幸」、「不幸」を思考することもなく、あるがままに現実を引き受けていたことが、エゴの拡大を防ぎ、エゴを緩ませた形で生活することが出来た所以ではないかと思うのです。


ここでは、結婚の一部の側面を一つの例題に出しましたが、この時代に生きた人たちのエピソードを読んでいると、至るところに、清々粛々と自らの現実を受け止めていたことが伺えます。

逆らうことなく、これも一つの天命だと、天命として全うしようとしていた事が伺えます。


それは、今と比べて、情報が少なかったことや、選べる選択肢がなかったこともあるでしょう。

だからそれ故に、「幸」、「不幸」の感情を持つことなく、あるがままに受け止める事ができたのだと思います。




私たちは、このあるがままに受け止めることがとても苦手です。


受け止めなくても、他の選択肢はいくつもあるし。


しかも、受け止める前の入口の時点から、それを「幸」、「不幸」と振り分ける思考が立ちふさがっている。




しかし、その抵抗と思考故に、更にエゴは肥大、拡大を始めてしまうのです。



現実をあるがままに受け止める抵抗を続けると、更に厳しい現実がやってくることになってしまうのですが、すると、人は自分の身の上を不幸だと嘆きます。


不幸だと嘆いて喜ぶのは、あなたではなく、あなたの中にあるエゴです。


エゴは不幸を糧にしながら、生き続けています、あなたの中で。



だから、幸せになるための、たやすい行動すら拒み続けるのです。



事実をあるがままに受け止めることは、エゴを消滅するためのスタートラインに過ぎないのですが、自分の存在を失いたくないエゴは、それをなんとか拒否しようとするのです。



そうして、皆堂々巡りの幸せ探しに没頭することになるのです。