偶然かもしれませんが、最近、「叱る」と「褒める」をテーマにした取材や登壇の依頼が増えています。

 

そこで今日は、みなさんと共に「叱る」「褒める」について考えてみたいと思います。

 

【叱る?褒める?】


日本のスポーツ界では、日常的に「叱る」「褒める」という言葉を使うようです。

「叱る」とは、学習者の望ましくない言動や行為を減らすための手段であり、同時に「叱られないようにする」という回避的行動習慣を誘発するものでもあります。

「褒める」は、望ましい行動の再現を促す一方で、「褒められたい」という欲求から、行動の本質を問わず、報酬のために行動する習慣を生む可能性を含んでいます。

一方、スペインの指導現場では「叱る」は使えど、「褒める」という言葉はあまり使いません。その代わりに、「フィードバック」というコミュニケーションを用います。「叱る」「褒める」以外の第三の概念とでもいえるでしょうか。

フィードバックとは、学習者に栄養(Feed)を与え、土壌に肥しを還元する(Back)ことを意味します。つまり指導とは、本来「FeedをBackすること」、すなわち学習者が健全に成長するための栄養を与える営みです。

決して、暴言、罵倒、げんこつ、ビンタといった毒を与え、学習者を傷つけ、土壌を枯らすことではありません。

また、フィードバックは、成果に対し「いいね!」を押すような単純作業でも、ダメ出しをするために使うものでもありません。あくまで、その成果に至る「過程」に対してコミュニケーションをとる営みで、それらを「正の強化」「負の強化」と区別しています。

まず「フィード+バック」は、対話を通じて生まれるものであるというのが前提です。学習者に問いかけることで、自分の思考を言語にし、理解するきっかけを得ます。そして、こうしたコミュニケーションが積み重なることで、学習者の思考は広がり、深まっていきます。

その結果、あるシチュエーションや現象が目の前に現れたとき、学習者は「なぜそれをそうするのか」を考えながら行動できるようになるのです。

ですから、「上手にできた・できなかった」といった結果ではなく、「挑戦した」などの過程にフィードバックをすると、学習者の意識は自らの行動や言動に向きます。

そのためには、大人の意識の向きを「成果」から「過程」にシフトさせることが必要です。すると学習者の意識の焦点が、本来向かうべきところに自然と定まります。

【「褒め続けると効果が薄れる。だから怒ることも必要だ」は本当か?】

一見、教育的に見える「叱る」「褒める」ですが、どちらも他者を操作する構造を含んでいることも忘れてはなりません。

たしかに「叱る」は人を律し、「褒める」は人を励まします。しかし、そこに「人を動かす意図」が潜んでいる場合、支配や統制のための道具になってしまいます。

日本には、「褒め続けると効果が薄れる」「だから怒ることも必要だ」と正当化する大人が驚くほど存在します。

そのような環境で育つ学習者は、「褒められるために行動する」「叱られないために回避する」といった習慣を身につけてしまいます。

つまり、「叱られるからしない」「褒められるからする」といった、他者のために行動する/行動しない習慣が形成されてしまうのです。

【日本の指導者の根強い暴力性はどこからきているのか?】

では、なぜこれほど多くの人が「暴力的な指導法」を信じ、正当化してしまうのでしょうか。それを理解するには、それぞれの生い立ちや成長過程における人生背景が影響しており、完全に理解するのは不可能です。

彼らは、いつ、どこで、誰から、どのようにしてこうした誤学習を受けてきたのか。そして、それが長年、日本スポーツ界で通用してきた理由は何か。

私は、日本には「人として大切に扱われない経験」や「粗末に扱われる経験」を多く重ねてきた人が少なくないのではないかと感じています。

「おい、これどけろ」「さっさとやれ」「アホか、お前は」といった扱われた方や、日常的な蔑まれ方が、知らず知らず多くの人たちの心を蝕んできたのではないかと。

最初は違和感や不快感を覚えた心も、こうした体験を繰り返すことで少しずつ麻痺し、心に万年表面麻酔をした状態となり、怒りや痛みを感じなくなっているのではないか、と。

【私たちはいま何を問われているのか?】

スポーツは、人が人として自分の人生を生きることを学ぶ場です。

ですから、私たちは今、「叱る vs. 褒める」の議論ではなく、指導そのものを問い直す岐路に立っているのではないでしょうか。

また、「叱る指導 vs. 褒める指導」の攻防を繰り広げるのではなく、人が人として扱われる場所を取り戻すこと。それを考え抜く局面に立っています。

そして、「人をどう扱うか」という根源的で壮大な問いが、私たち一人ひとりに投げかけられているのだと、私は思うのです。