この記事のコース

歩き始めてすぐ左手に山中関所跡がある。あとがあると言っても本当に跡で崩れた石碑のみ

南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったことがわかります。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようです。熊野への参詣者が増加していたこのころは、かなりの税収入が得られていたと思われます。

 

この案内板は何?字が消えてる。熊野古道かハイキング道への案内かわからないので矢印のほうにはいかず直進

看板がほとんどないので不安です💦

 

和歌山県に入りました。

 

しばらく歩くと日本最後の仇討ち場がありました。矢印のほうに行かなくて正解だったようです。

 

幕末の安政4年(1857)、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末切られ、川に投げ込まれて命を落とした。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出た。

 当時は既に仇討ち禁止令が出されていたが、岩之助の並々ならぬ決意におされ、翌年の安政5年(1858)、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたという。

 その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出た。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉(大阪府)の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうだ。時は文久3年(1863)、時代が江戸から明治へと移る5年前の出来事だった。

 こうして境橋は、日本で許された最後の仇討ちの場所となった。

和歌山新報スタッフブログより引用

 

日本各地に最後の仇討ち場というのがあるらしいが、ここは公的に認められた最後の仇討ち場であるという。

 

そしてやっとこさ、熊野古道の案内が出てきました。この先で右手に進み線路を渡ります。

中山王子は道からも見えてます。

 

ちょっとの間だけ田舎道。ほっとします。

 

 

でもすぐに幹線道路に戻るんですよ。ここの車道は結構スピードを出している車があるので怖いです。写真撮るのも注意が必要

この辺り緩やかな登りが続きます。私でも息切れすることなく登れる道です。長女はトレーニングにならないとかなりの重りをリュックに入れて歩いたそうです。和歌山から山中渓へのこの道を車で走ったときは結構な激坂のイメージですが、山中渓側からくると歩きやすい道なんですね。

 

峠の不動明王

「路傍に立ち、風雪に耐えていく100年と旅人の安全を守ってくださいました。」とある。(過去形?)

 

この辺りにはお地蔵さんも点々とあります。

 

周辺何もない道沿いなのにお供え物もされています。

 

和歌山市?岩出市?見えてきました。

 

 

まもなく先日スタンプを押した山口王子に出ました。

 

さて市街地に行くとお腹がすいてきました。私の腹時計は正確で時間を見るとちょうど12時。間もなく12時を知らせる音楽が流れてきました。おにぎりやパンは携帯していたのですが気温は2~3度

しかも峠を越えたとたん風がきつくて寒い寒い。とても外で冷たいものを食べる気にならず、お店に入ります。

が、お店紹介はまた明日の記事で。今回は続きに進みます。

 

この後前回行かなかった川辺王子に

車ではなじみの粉河加太線沿いも熊野古道らしくところどころ提灯を見かけます。今回の行程で粉河加太線を歩くのが一番怖かった。歩道はないし、交通量は多いし💦

脇道に入るとまた田舎の風景

 

この辺案内板少ない💦

川辺王子です。

 

ここから紀伊駅がすぐ近くなので紀伊駅から帰りました。今回山中渓の峠越えを警戒して本来山中渓駅から布施屋駅へのコースを2回に分けましたが、予想より峠が楽でこの時点の余力からすると体力的にも時間的にも一気に行けたかもって感じでした。

ただ布施屋駅からうちに帰るのは時間がかかるんですよね。交通の利便性ではこちらが勝ってました。

そのあと少し出かけたりして計15kmほど歩いてました。