成田空港だけでは無い成田市 成田山新勝寺 | ゆのブログ

成田空港だけでは無い成田市 成田山新勝寺

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ゆのです 過去に行った成田山新勝寺ですが、説明をつけてみたいと思います

(2015年11月2日撮影)

上野東京ライン常磐快速・成田線で成田へ行ってみたいと思いますが、東京駅からは総武快速線で行った方は早いと思います

東海道新幹線から乗り換えでこの時は慌てていたと思います…

上野東京ライン・常磐快速・成田線で成田駅に到着 総武快速線だと1時間15分目安ですが、このルートでは1時間35分目安と東京駅発着でも違ったりします… ただ、新幹線乗り換えになると、総武快速線は地下ホームとかなり離れているため移動しなければならなくなり、上野東京ライン・常磐快速・成田線だと地上高架ホームだと意外と便利ではないかと思いますが品川駅になると、圧倒的に総武快速線が便利ですね…

成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本の千葉県成田市成田にある真言宗智山派の仏教寺院であり、同派の大本山の一つであります 山号は成田山 山号を付して「成田山新勝寺」、あるいは山号のみで「成田山」と呼ばれることが多い(アクセントは駅名や人名と異なり、“なりたさん”ではなく“なりたさん”)そうです 本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地であります そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきました 開山は平安時代中期の天慶3年(940年)と伝えられています

参詣者数において関東地方屈指の寺であります 初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、社寺としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、寺院に限れば全国第1位の参拝客数であります 今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られています 成田国際空港に近いことから、外国人観光客にも人気があるそうです

成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱に始まります 朝廷は追討軍を差し向けると同時に将門調伏の祈願を大寺社や密教僧に命じました 天慶2年(939年)、寛朝僧正も朱雀天皇の密勅を受けました寛朝は、京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて総国へ下ることとし、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に至り尾垂浜に上陸しました 陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。ややあって将門は戦死。最期は諸説あるが、寒の戻りの風に乗った一本の流れ矢が将門の額に命中したと伝えられています これを朱雀天皇は、不動明王の霊験と歓喜しました さらに、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したというそうです この時、朱雀天皇から「天国宝剣」を下賜されたとされています

こうした由来から、平将門を祭神として祀る東京の神田明神や築土神社と、成田山の両方を参拝することを避ける人もいるそうです

成田山はその後、源頼義、源頼朝、千葉常胤、徳川将軍家や水戸藩主徳川光圀といった関東有力武将の崇敬を受けました

永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座し、伽藍が建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていました

江戸時代に入って世情が落ち着くと伽藍が再建・整備され、江戸に近いことから参詣者が増えるとともに、江戸で成田不動の出開帳が度々行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年〈明治29年〉に名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録があります 歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなっているそうです

成田は鰻屋がかなりありますがJR成田駅から距離にして約800mの成田山表参道には、うなぎを出す旅館や料理店が多くみられます

この時は鰻ではなく天丼にしていました…

明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなりました 当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていました 満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦に至るまで、『成田市史年表』から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけています 第18世住職・荒木照定は1928年(昭和3年)に新更会を設立、『成田町報』などを通じ、地域の民衆に対する日本古来の伝統的思想の教化を積極的に行いました 日中戦争が激化していた1938年(昭和13年)には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納しています また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに当時の額で10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力しました

寺の開基1000年でもある1940年、10年に一度の大開帳は、国家の一大イベントとなる行事である紀元二千六百年記念行事と重なるのを回避し、経済的に不利な状況になることを避けるため、二年前倒しされましたこれより2018年の開基1080年を含めて現在まで、大開帳は開山の周年と二年ずれることになる

本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定されました 鎌倉時代後期(13世紀~14世紀)の製作とされるそうです

今回は成田山新勝寺の簡単な説明でした

(Wikipediaより引用)