― 神戸の異変 -

SOMETHING UNUSUAL IN KOBE Part2

<なければ作ればよい>

 

【前回のあらすじ】

小生の勤める総合商社は、大手自動車会社を相手に、海外向けの部品輸出業務の手配と輸出用梱包資材販売を請け負っていましたが、そうした中で1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。同様に梱包資材納入をしていたライバル会社S社の神戸工場が被災したため、震災当日に急遽名古屋の顧客自動車工場へ駆けつけ、日本の基幹産業である自動車部品の輸出を滞らせないため、代替品の納入を約束したのです。

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東京に戻った小生でしたが、やっと梱包資材の安定供給確保によって輸出ができると安心していたら。輸出用コンテナ船予約担当から、「荷物がとどきません」との悲鳴が。輸出用のコンテナ船(国外の航路を行くので外航船とよんでいます)は、路線バスと同じで定時運行です。定められた曜日に港に到着し、出発します。その到着日より前もって港の所定の場所にコンテナに詰められた状態で外航船を運行する船会社に荷物を引き渡す必要があります。

 

商社は自動車部品を供給元である自動車会社から輸出用の各主要港で受取り(FOBあるいはFCA条件といいます)、そこからの外航コンテナ船の手配、輸出先への納品を担当します。予定通り外航コンテナ船の手配をして待っていても、自動車会社の工場から自動車部品の詰められったコンテナが届かないのです。「梱包資材の問題は解決したはずだ。なぜ?」

 

日本の輸出は、主に5大港と目される東京・横浜・名古屋・大阪・神戸を介して行われていたのですが、筆者の顧客自動車工場のうち、岡山県にある工場からは神戸を介していました。その神戸港が被災して閉鎖されたため、他の港を経由しなければいけなくなりました。

 

自動車部品の様な大量の荷物は、トラックではとても運べません。岡山県の工場で生産された部品は近隣の小港、水島港から神戸港まで国内輸送専用の内航船で運びます。神戸港以外の港へ運ぶためには、迂回する距離が長い分、従来よりも多くの内航船が必要になります。

 

 

神戸港からの急な迂回需要によって、内航船が足りなくなってしまったのです。内航船の手配は自動車部品の製造元であるメーカーの方で行っていましたので、商社側ではどうする事もできませんし、そもそも内航船は国交省の方針で全体の隻数制限があり、元々すくなくなっていたのです。

 

当時水島港から神戸港を経て海外へ輸出されていた自動車部品の量は、毎月コンテナ1500本分ほどにも上りました。これが滞ってしまったら。。。すでにマレーシアを始め一部の海外自動車工場では部品不足から操業を休止しなくていけなくなっていました。

 

さあどうする?

 

自動車部品以外の他の貨物にも同様の影響が出始めていました。自動車関連以外の貨物を輸出を取り扱っている隣のチームはそのため輸出の業務自体ができなくなってしまい、やることがないので、毎日さっさと帰宅してしまいました。商社は主要港からの輸出以降が業務範囲ですので、自分たちの責任ではない。そういう事です。

 

「何かおかしい。確かに業務は楽になるかもしれないが、結局扱う荷物が減れば商社は減益じゃないか? そんなに平然としていていいのか?」 小生はなにかできないか必死に考えました。同じチームの先輩が、「内航船があれば詰めるのにねえ」と何気なく発した言葉で突然閃くものがありました。「そうだ、なければ自分たちで手配すればよいんだ」

 

外航コンテナ船を手配する担当は、路線バス的に定期運航する船に予約(ブッキングといいいます)する業務しか経験していないスタッフがほとんどでした。小生はこのチームに異動前、化学品輸送のためのタンカーをチャーターする業務を担当していたので、チャーター契約について精通していた事が、発想の元になりました。

 

早速、内航船の運航会社に当たって、2隻の船を専用でチャーターする契約を結びました。1隻当たり、1日数百万円の費用が掛かりましたが、上司を説得したのです。コンテナ輸送のために内航船をチャーターする商社など当時どこにもありませんでした。ですが、震災から3日目に2隻の内航船をチャーターして、自動車会社にサービスを提供するという、誰も考えていなかった事をやったのです。

 

上司を説得するに当たって、思いつきだけではだめですので、綿密な採算計算を行いました。当時、どの会社もPCは部署に数台のデスクトップを共有して使うのが普通で、せいぜいワープロ機能と、初歩的な表計算機能ぐらいしか使っていませんでした。予算や事業計画は手書き、計算は電卓が主でした。ところが、3年前に就任された米国帰りの当社社長は、米国IBM社と提携し、一人一台のノートPCを社内に配布していたのです。それが役に立ちました。

 

今では当たり前の表計算ソフトを当時いち早く活用し、詳細なコスト・運賃シュミレーターを作成、それを見せて上司に迫ったのです。「これは社運、いや国益が掛かったプロジェクトになります」。当時の上司は、大学の先輩筋に当たる方でもありましたが、人の好い、柔軟な方で、すぐさま言って頂きました。「分かったよ、なべちゃんの好きにやってごらんよ」

 

上司と一緒に、港区にある自動車会社の本社に行き、居並ぶ海外事業の担当者、役員の前でたった2人でプレゼンテーションを行いました。その場で当時珍しかったノートPCを叩いて見せ、あらゆる場合を想定した運賃試算を提示しました。そして、こう言い切りました。「弊社にお任せいただければ、御社のサプライチェーンに決して穴は開けません。お約束します」 。

 

決して安い金額ではなかったと思いますが、役員以下、他に選択肢が思いつく訳でもなく、2つ返事で「お願いします。」となりました。億単位のプロジェクトになったのです。

 

最終的にはチャーター船は7隻にまでなり、その運航のためのプロジェクトチームができました。リーダーは言い出した小生自身になりましたが、実際船の運航経験はありません。そこで、上司が同じ財閥系グループで、国内の港運営や内航船運航をしている会社のプロフェッショナルを3人ほど引っ張って来て下さいました。その3名と小生に加え、同じチームの上司、先輩社員、そして小生のアシスタントの計7人が運航プロジェクトチームを結成したのです。契約・収益管理・営業は小生、運航管理は3名のプロフェッショナル、社内調整は上司、他の2名はサポート、今思えば奇跡的なチームでした。

 

部内の他のチームが輸出貨物が届かないと言って早々に早帰りをするのを横目に、内航船運航プロジェクトチームは深夜まで熱く働いていたのです。国益を賭けて。

 

船は確保しました。ですが、実はそれ以上に大変な事があったのです。

それは。。。。(Part3に続く)