-神戸の異変-

SOMETHING UNUSUAL IN KOBE

 

その日は溜まった仕事を片付けるため、いつもより早く出社しました。

 

早朝7時過ぎごろでしょうか、東京駅地下ホームの改札を出て人気の少ない構内を歩いて、丸の内方面を目指していたところ、改札の掲示板に「近畿地方で強い地震が発生した関係で、東海道新幹線の運転を取りやめております」とのメッセージを見つけました。

 

その瞬間、強い直感が自分を襲いました。「これは何か大変な事が起こっている」

すぐさま駆け出してオフィスに駆け上って、部長席近くのテレビをつけると、そこには信じられない光景が・・

「街が燃えている」

神戸の街が燃え盛る炎に包まれているではありませんか。

そう、1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生していたのです。

 

とっさに、自分の仕事にどのような影響が出るかに考えを巡らせました。

そして次の瞬間、「行かなくては」。何も考えずに新幹線に飛び乗ったのです。

 

当時の小生は、物流開発部という部署で自動車とその部品のロジスティクス担当をしていました。輸送オペレーションとそれに必要な梱包資材の開発と販売です。テレビの情報を総合すると、どうやら神戸の街が大きな被害を受けているらしいこと、そして神戸港が閉鎖されていることが分かりました。まだインターネットが出現して間もない時期なので、主な情報源は支店や取引先との電話、FAX、そしてマスメディアしかありません。

 

自動車部品はコンテナに詰めてコンテナ船で輸出していました。コンテナに詰める際に、細かい部品を積み付けるための、鉄パイプで組んだ小さな容器が必要でしたが、その容器の開発と、自動車会社への販売事業も、小生の担当でした。容器を販売して部品を詰めてもらい、その容器を更に海上コンテナに詰めてコンテナ船で海外へ輸出する。その輸出手配もまた、小生の部署の仕事でした。

 

容器は自動車会社の各地の工場が資材として購入するのですが、納品業者が1社独占では価格を抑えられないので、複数社から購入することが一般的でした。小生の勤める総合商社は、東海地方の工場に製造委託をして、それを販売していたのですが、競合の会社は神戸に工場を持つ物流資材メーカーS社でした。

 

神戸の異変を知ったとき、直感的に「あの会社が危ない」とS社の事を思い、同時にそこから供給されている資材供給が止まることによって、顧客の自動車会社の部品生産にダメージが出ることを予感しました。部品生産ができないと輸出ができないので、結局それを取り扱っている当社のビジネスに跳ね返ります。

 

「行かなくては」と思ったのは、資材を供給している顧客自動車会社の名古屋工場でした。

関西での地震という事で、東海道新幹線は東京・名古屋間でのこだま号のみが往復運転をしていました。危険かどうかなど、全く考えていませんでした。何かが自分を突き動かし、駆り立てていたのです。上司や同僚が出社すると、さっそく出張の許可を取り、からだ一つで会社を飛び出しました。小生の身を案じた先輩の女性社員が、「気を付けてね」とおにぎりを渡して下さいました。その心遣いを思い出すと今でも胸が熱くなります。

 

さて、名古屋の顧客の自動車工場に飛び込んだ小生は、突然現れた男の、対応のあまりの速さに驚きと感激をもって迎えられ、当社の製造委託先も東海地方にあったためすぐ駆け付けてくれ、すぐさま対策会議が始まりました。未曽有の事態の中で、自分がやらなければならない使命を強く感じていました。日本の基幹産業である自動車産業の海外へのサプライチェーンを止めてはいけないと。

 

自分が直感した通り、S社の神戸工場は大きなダメージを受け、操業停止に追い込まれていました。競合関係にある会社とはいえ、良き競争相手でいわば戦友のようなS社の、一日も早いダメージからの回復を願っていました。当社製造委託先とも心を合わせ、

「S社の分の供給は同社の回復まで当社が引き受けます。当社が関わっている限り、絶対に供給に穴は開けません。」

と啖呵を切りました。そして、火事場泥棒のようにS社にとって代わるような事はせず、復旧後は従来と同じように正々堂々と競争する事も併せて明言したのです。

 

当時若干29歳、若い小生は単なる一企業としてのビジネスではなく、未曽有の国難を乗り越える一人の国民として、自分の置かれた立場で何ができるかという、そういう熱い志に燃えていました。日本を代表する総合商社だからこそできること、そこに居合わせて責任ある仕事を任せれているからこそ考えられること、しなければいけない事があると考えたのです。

おそらくその場に居合わせた皆が、それぞれの立場で同じような気持ちだったと思います。

 

名古屋での会議を終え、小生は一旦東京まで引き上げました。

しかし、実はそれから後にもっと大変な事が待っていたのです。

 

- Part2に続く