後数時間で、1年暮らしたParisの街ともお別れとなりました。
今朝早起きして、私が1番好きな場所、
そして最後の日はここから…と思っていた場所、凱旋門に登って来ました。

11年前、この凱旋門から見たParisの街並みに魅了され、
そして時を隔てて今この時を迎えています。
11年前は、こんな気持ちでここからの街並みを見る事とになろうとは、
本当に予想もしていなかった…。

もっと大きな達成感を持って、
ここからの街並みを眺めるつもりだったけど、
正直そんな達成感は感じられず、まだまだ走り出した道の途中で…と、
後ろ髪引かれる思いで最終日を迎えた私です。

京都から1度も出た事のない私は、人生で初めて一人で暮らし、
Parisの街は正直本当に厳しかったです。
最初の半年はずっと日本に帰る事を待ち望み、
残り半年はParisにまた戻って来る事を望みながら暮らした、
ここParisでの生活。

思い返すと辛い事の方が多かった気がするけど、
それでもここでこうして掛け替えのない1年を過ごせた事、
本当に良かったと思っています。

この1年、日本にいる家族、友人の応援をなくしては、
絶対に今日のこの“1年後”をParisで迎える事は出来なかったはず。
魅力がいっぱいのこの街を、100%の気持ちで立ち去りたくはありません。
ですが100%の気持ちで、家族や友人に逢える事が嬉しいです。

1年間支えてくれた家族と友人に、
有り余るほどの“ありがとう”を伝えたいと思います。
Merci beaucoup!!
そしてParisの街に…A bientot!!

追伸
時間がなくアップしそびれた数々のブログは、
日本に戻ってからもしばらく続けたいと思っています。
皆さまどうかブログ最終日までもう少しお付き合い下さいませ。

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私が住んだ家まで続くAVENUE FOCH
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AVENUE DES CHAMPS ELYSEES
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ずっと輝き続けたTOUR EIFFEL
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私の特別な場所、ARC DE TRIOMPHE
今日はギリシャに到着して2日目。
朝食を済ませ、まずは明日のフェリーの手配をするために旅行会社へ。
観光本に書いてあった、日本人が経営する旅行会社を目指して出たのですが、
その住所に着いてみるとその会社はなく、
管理人の様な人に尋ねてみると、英語が全く話せないらしく、
全てギリシャ語で言われ、一切意味分からず…。
ギリシャ語を習得するなら、まず特殊なアルファベットからの学習となります。

と言う訳で、旅行会社に連絡を取り場所を聞いたところ、
フェリーの手配はやっていないとの事。
代わりに現地の旅行会社を紹介してくれました。
ヨーロッパ圏内はフランスに限らずなのか、
何だったらフランス以上に働く気がなく、
同じ事を二度聞くと、とてつもなく不機嫌になり、
私達に接客をしながら、よこの同僚と喧嘩をし始める始末。
お店の店員さんも、いらっしゃいませ所か挨拶すら、
笑顔一つなく、私達を凝視し『Thank you!』と言ってお店を出ようとも、
一切言葉を発す事なく、ニコリともせず…。
すごい国だな…とこちらも苦笑いです。

まぁそこはもうParisで散々鍛えれた私達。
怒る事もなく、気を悪くする事もなく、
『すごいね~ヨーロッパって(苦笑い)』と言いながら、
今日のメインイベント、パルテノン神殿に向かいました。

パルテノン神殿は、古代ギリシア時代にアテナイの
アクロポリスの上に建設されたアテナ神を祭る神殿。
現在残る神殿はペルシャ戦争後に建設されたもので、
長さ68.7m、幅30.6mの周柱式神殿。
通例、処女神殿と訳されますが、
古代ギリシア語では、パルテノスは一般的に若い娘を意味します。
古典時代のギリシア建築の傑作のひとつとなり、
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

何も詳しい事を調べずままギリシャへと向かった私。
勝手な私のイメージでは、パルテノン神殿は海に面した崖に建っていると、
勝手にそう思い込んでいました。
ですが、街の高台に位置し、アテネの街を見下ろすように
そのパルテノン神殿はどっしりと佇んでいました。

夢にまで見たパルテノン神殿。
ずっと思い焦がれる程、この建物に興味を持っていた私。
ですが、これだけ色々な国を巡ると、
正直初めて行ったヨーロッパの時の様には感動は激しくなくなり、
私の今の旅とは、街街の顔を感じて巡ると言った風に変化して来ています。

6月のアテネは京都の夏の様に暑く、
ここ1年Parisで暑いと感じた事がなかった私達は、
“暑い”と言う肌感とは無縁で暮らしていたので、
正直体にとても堪えました。

でもせっかくここまで来たのだから、1つで終わる訳にはいかないと、
Caféで休憩しつつ、売店で飲み物を買いつつ、
アイスクリームを食べつつ、次は古代アゴラに向かいました。

古代アゴラとはアクロポリスの丘の北西に広がるかつてのアテネの中心街。
人々はここに集い、物品を買い求め、芸術を鑑賞し、
活発な議論を交わし合ったと言います。
緑に囲まれた遺跡は、今では大半が廃墟と化していますが、
今も観光客が後を絶たない遺跡スポットです。

そんな古代アゴラの北西、アゴライオスの丘に建つ宮殿。
それがヘファイステイオン(テセイオン)神殿です。
パルテノンと同時期のドリア式宮殿で、原形をよく残しており、
遺跡の中でも取り分け目を引きます。
誤って“テセイオン宮殿”と呼ばれてきましたが、
鍛冶の神ヘファイストスをまつっています。
フリーズにはヘラクレスやテセウスが描かれていました。

真夏の茹だる様な暑さの中、
これだけ古代遺跡を巡れば、もうクタクタです。
明日のミコノス島へのフェリーは早朝7時25分発。
飛行機に本気で乗り遅れた私達は、学習能力をつけたのか、
この日は早めにホテルに戻り、眠りにつきました。
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私のParisでの生活は、残すところ後2週間。
私は27日にParisを発ちます。
1日1日P残り少なくなるParisでの生活と離れてしまう事に、
とてつもない切なさを感じながら、毎日精一杯Parisを満喫しています。

そしてこのParisでの生活に欠かせなかったもの。
それは1カ国でも多くの国を自分の目で見て感じてくる事。
前回のブログでハンガリーの事を書きましたが、
それから、アイルランド、マルタ島、シチリア島と巡りました。
旅のブログは本当にあれもこれも伝えたい感情ばかりで、
どれも省く事が出来ず、時間を多く要します。
なので、日本に戻ってから、またその旅行の事も少しずつ書いていくとして、
今日からしばらく実況生中継を行いたいと思います。

私は最後の時間を利用して、ずいぶん前から興味を惹いていた国、
ギリシャはアテネに来ています。
今日はその記念すべき第1日目。
ですが、のっけから本当にあり得ない大失敗を…。
11か月住んでいた部屋を引き払い、
一緒に今旅行に来ている友人の家に荷物を全て移動しました。
その作業が想像を絶する大変さ。
11か月暮らすと言うのは本当に大きな事です。
何せ荷物が考えられない位の量になっており、
まとめて持ち運ぶだけでもとんでもない状態。
家と友人の家は1駅しか離れておらず、ここParisではタクシーをお願いすると、
必ず断られるか、それどうですか?と言うほど、
迷惑な顔をされる事が目に見えているため、
全て自力で運ぶしかなく、家とその友人の家を何往復も繰り返したので、
並々ならない疲労困憊具合。
それに加え、何をどこに入れたのかももう訳が分からなくなり、
夜中まで携帯の充電器を探し、結局寝たのは起床時間の1時間半前。
朝が弱い私は当然時間に起きられるはずもなく、
寝不足のせいで頭も働かず、動きも鈍く、
大幅に出発の時間が遅れてしまいました。

人生何でも事は重なる物。。。
遅れれた試しのないエールフランスの空港バスが1時間近く遅れ、
観光シーズンの今、Parisの街は大渋滞。
今まで1度も味わった事のない、
飛行機の乗り遅れを経験する羽目になった今日。
正直、飛行機の乗り遅れってあり得ない位神経を圧迫します。
生きた心地がしなかったバスの中。
でも現実に私達乗り遅れました。
空港に到着したのは出発時間の15分前。
悲壮な顔でお願いしてみたけれどやっぱりNonと。
でもとっても良い係りの人の計らいで、
次の便に振り替えて貰う事が出来たのです。
Parisでは考え難い、失敗の中の大成功です。

B型の友人とO型の私。
飛行機に乗ってからも、『遅れたせいでお昼の便になたったから、
ギリシャ料理の機内食食べれて逆に良かったよね』なんて、
めでたい事を言いながら、空の旅を満喫していました。
ギリシャの航空会社オリンピックは、機材は新しくはない物の、
機内の座席や身の回りはかなり広めにとってあり、
機内食もとっても美味しいし、キャビンアテンダントの制服も可愛い。
また利用したいなって思えるような航空会社でした。

そして3時間のフライトを終え、念願のギリシャはアテネの街に。
アテネの街は私が長年想像していたより、ずっと発展途上に感じました。
タイやバリとまでは行かずとも、かなりの発展途上の様に思えます。
フライトの乗り遅れたせいで、ギリシャに到着したのはもう夕方の5時。
ですがタクシーも使わず、インフォメーションで適当に案内を聞き、
バスとメトロに乗り、何の問題もなくホテルに到着。
その後、ギリシャ料理シシケバブを夕食に、ビールを飲みながら、
夕食の時間を堪能し、そして1日を終えました。

明日は早起きして、
翌日のミコノス島への移動に使うフェリーの手配をしなければいけません。
そしてずっと夢にまで見たパルテノン神殿を見に行く予定です。
ギリシャからの実況中継、8泊9日の旅。
どうぞ最後までお付き合い下さいませ。

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オリンピック航空の機内食(全てギリシャ料理でした)
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          夜ごはん(これもギリシャ料理シシケバブ)
ウィーンからハンガリーの首都、ブタペストまで高速バスでおよそ3時間。
夕方にバスに乗り込み、着いたのは夜の8時過ぎ。
航空券とホテル、そしてエアポートからホテルまでの送迎、
それを全て含んだツアーに申し込む事がほとんどを占めていた
私の今までの海外旅行。
それがParisに来てからは、フランス人は自己主義の為、
時間を守る事も、そして団体行動をとる事もできません。
その為、こちらにツアー旅行なんて物はなく、全てにおいて自由旅行。
移動手段からホテルまで全て個々に取り、
自己責任で全てをこなさなければいけません。

そのやり方で旅慣れてしまったせいか、
回数をこなす毎に全ての面においての緊張感が無くなってしまい、
終いには『どこへ行っても何とでもなる』と言う
変な安心感を持ってしまうように。
そのどこから来るのか分からない変な自信のせいで、
このハンガリーで痛い目をみる事になりました。

首都ブタペストに到着したのは夜の8時。
そして旅行に行った時期は2月。
Parisよりも南の癖に、Parisより数段寒い状態。
当然辺りはもう真っ暗です。

ハンガリーはユーロ圏ではありません。
よって通貨はフォリント。それをすっかり忘れ去り、着いたは良いけど、
持っているお金は全て€。地下鉄すら乗る事も出来ず、
とにかく3時間休憩がなかったので、トイレに行く事に。
そうした所がトイレにもお金が必要なヨーロッパ。
ユーロしかない私達はトイレにすら行けず、両替所は既に閉まっているので、
本当にどうしようか…と悩んで、横にATMを発見。
そのATMで友達が物価も何も分からないので、
最低料金をこちらの通貨で引き出しました。
そしてトイレの受付のおばさんにそのお金を差し出すと、
光に照らし、『これは使えない』様な事を言っています。
この事で後に散々な目に会う事になる私達ですが、
残念ながらハンガリーの方々は一切英語話せません。
話すのはハンガリー語のみ。私達のハンガリー語のボキャブラリーは当然0。
全く言っている意味が分かりません。
一切分からないハンガリー語で、お札を見て何か怒って言っているけれど、
何の事なのかはもうおばさんの行動から読み取るしかなく、
そして行きついた答えが『これは透かしがないから偽札だ』と…。
『そんな、今あなたの横にあるATMで引き出したばっかなんですけど…。
見てましたよね?そしてそれを…あなた…』
と、こちらも何語だかもうさっぱり分からない状態で主張を。
そして言い合いの末、何とかトイレに入る事が出来ました。
が、ここからが問題です。

ネットから適当に持って来たホテルの地図を見ながら、
最寄りの駅まで地下鉄で移動。
そしてその最寄りの駅の売店で道を尋ねてみました。
そうした所が地理を一切把握していない挙句に、
外はもうすっかり夜。そして一切言葉は通じない。
最寄りの駅に来たものの、道を一切見つける事が出来ず、
人は冷たく、治安も決して良いとは言えない雰囲気。
尋ねても尋ねても誰も英語もフランス語も分かってくれない。
タクシーに乗るにもお金がなく、途方に暮れる私達。
そんな所に、一人英語で声をかけて来てくれたおじさんがいました。
何かお探しですか?お助けしましょうか?と…。
私達はそのおじさんに状況を説明し、おじさんが理解し終えると、
ここはどうやら全く最寄りではなく、そのホテルはだいぶ先との事。
そして、残念ながらハンガリーの治安は悪く、夜は出歩かないでと。
おじさんが悪い訳でもないのに、こうして現実ハンガリーの治安が悪い事を、
私達観光客に謝っていました。
そしてそのおじさん、私達をホテルまで案内してくれるとの事。
再度地下鉄に戻り、そしてそこからバスで移動すると。
でも私達も全く調べて来てない訳ではないし、最寄りの駅のはずなのに…と、
疑わない気持ちもない訳じゃなかったけれど、他にもう頼る人も術もなく、
一か八かおじさんに全てを委ねる決心をしました。
ですが正直、本当に良い人なのか、それとも私達を騙そうとしているのか、
本当の事は分かるはずもなく、地下鉄に乗ってからも、
そしてバスに乗り継いでからも、
ホテルに到着するまでずっと冷や汗をかきっぱなし。
特に私は男性を基本疑ってかかっているので、
ホテルが見えるまで本当に終始生きた心地がしませんでした。
最終的に一か八かの賭けは…私達がWinner!!
おじさんはこの上なく、素敵な紳士でした。ホテルの中まで私達を送り届け、
そして何かまた困った事があったら連絡しなさいと、名刺まで頂き、
何とももう感動で胸がいっぱいでした。
もしあの時あの男性に出逢ってなければ、
きっと私達はホテルにすら行く事が出来ず、
朝方まで途方にくれていたはず…。
Parisに来て、相当の数旅をし、その旅の先々で何時も途方にくれた時、
必ずそんな救いの手を差し伸べてくれる人に出逢っている気がします。

そう考えると…
毎日生きて行く中で、辛くても辛くても誰も手を差し伸べてくれない時…
何時も私は『こんなに辛い思いをしているのに、
どうして誰も助けてくれないの』と、そう思っているけど、
きっとそれはまだ自分が頑張れる証拠なのではないかと
今はそう思えるのです。
本当にどうしようもなくなった時にだけ、その時にだけ神様が救いの神を、
人に委ね寄こすのではないかと。

本題に戻り…
ハンガリーの首都ブタペストは、
ドナウ側に沿って西岸がブタ地区、東岸がペスト地区。
そしてそのドナウ川に架かるくさり橋が
市内で最も美しいと言われています。

ウィーンの窮屈な宮廷生活を逃れたエリザベートが、
傷心の旅の末にたどり着いたブタペスト。
世は市民革命と民族主義が台頭する混乱の世紀末。
ですが、この地の人々の温かみに触れ、
孤独な王妃は次第にその心を開いて行きます。
世界一美しいとも言われる国会議事堂、
絢爛たるオペラ座や宮殿、美食に陶磁器…。
“ドナウの真珠”と讃えられエリザベートが愛した街の魅力は、
今もなお輝き続けています。

ブタペストでの滞在は3泊4日。
まずハンガリーの文化では欠かせない物、それは温泉。
温泉と言っても日本の様に『お風呂』と言った感じではなく、
どちらかと言うと温水プールと言った感覚に近いです。
泳ぎはせず、その温水に浸かると言った感じでしょうか。
水着着用、男女混浴、そんな状態の温泉は、
外が吹雪だと言うのに、想像を上回るぬるさで、
正直風邪を引くんじゃないかと思うほど。

そしてこの寒い地でのデートスポットなのか何なのか、
お年寄りからティーンエイジャーまで、カップルで溢れ返っています。
そして誰もがいちゃついている…。
そしてアジア人など私達以外は一切いませんでした(苦笑い)

そんな中終始苦笑いのまんまで、
温泉をハンガリー人の様な顔をして楽しんでいた私達。
そして『もうこの温泉は一生いいよね~』とか言いながら、
その温泉を出た足で、その、ブタとペストを上から眺めようと
吹雪の中ゲッレルートの丘へ。
なかなか吹雪の中を、散々温泉でのぼせた後に、
丘を登ると言うのは骨の折れる作業で、
頂上にたどり着いた時には正直クタクタに…。
こんな事なら先に丘に登っておくんだったと言いながら、
何とか頂上にたどり着き、
雪のブタとペストの眺望を堪能したのでした。
雪のブタペストの街は、本当に神秘的で、
目で見ている事が嘘のように感じました。

翌日、もう既に紹介済みのこの街で最も美しい言われるくさり橋を見に。
セーチェーニ鎖橋はハンガリーの首都・ブダペストを流れる
ドナウ川に架かる吊り橋です。全長375メートル。
ブダペストのドナウ川で最初に架かった橋であり、
西岸のブダ地区と東岸のペスト地区を結んでいます。
イギリス人の技師ウィリアム・ティアニー・クラークが設計し、
建設はスコットランド人アダム・クラークの監督と
ハンガリー人セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の
支援のもとでなされました。
1849年に開通した当時は中央径間(202メートル)が世界最長だった。
夜間ライトアップされ、
連なる電球が鎖のように見えることから鎖橋と呼ばれる様に。

朝一番からくさり橋を見た後、その足で向かったのはマーチャシュー教会。
ブタの丘にそびえるゴシック建築の殿堂。
15世紀にマチャーシュー王の手で改築された為にこの名が付いてるそう。
エリザベートが戴冠式を行ったことでも有名です。
壁の文様や色彩にビザンチンやアジアの影響も残っています。

そんなシシィことエリザベートの影を色濃く残すブタペストの街。
耳にするだけでは決して伝わりきる事もないその歴史を、
強く、そして重く感じました。

Parisに来て出逢った大切な友人えりちゃんと巡った3カ国の旅。
個人の好き嫌いはあれども、
どの街も歴史も全てが私にとっては興味深く、
そしてキラキラと光って見えました。

そしてたかが言葉、されど言葉の壁を、どの国より強く感じたハンガリー。
フランス語だってまだまだだけど、
自分の人生の中で可能な限りの言語を習得したいなと、
そう強く感じました。

言葉が通じると、分かりあえるはずのない人の気持ちが見えてきます。
そしてその国の言葉にしかない、決して訳す事の出来ないニュアンスが、
全ての言語の中に存在します。
母国語並みにとは行かなくとも、
人の気持ちや考えを少しでも理解出来るように、
同じ人間として通じ合えるように、
生きている限り私はこの“言語”を学び続けたいと、
そう思いました。

皆、興味ある物、そして手に入れたいものは千差万別。
でも私がこの1年Parisで生活し気付いた自分の本当に好きな物。
それはファッションと言語でした。

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ゲッレルート丘から、雪のブタペスト
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       くさり橋のライトアップ      
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       マーチャーシュー教会で冠を取るポーズ       
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       くさり橋を挟んで、右岸がブタ、左岸がペスト    
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       国会議事堂に入れず…(予約必要と知らず不機)
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       シシィが愛したケーキ
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       オペラ座にはダンスソワレで入館できず…(再度不機嫌)
今私が通っている服飾専門学校では、最後の課題提出に日々追われ、
正直寝る時間もままならない程。
学校の過酷な授業時間をこなすべく、目が自然に閉じそうな状態でも、
授業に出席しています。

そしてその日も同様疲れ切った体で授業に出、
半分夢見状態で存在だけしていた私。
そんな中、めずらしく何度も携帯が鳴っていました。
日本でならまず授業中に携帯電話を取るなど以ての外。
でもここはフランス。
先生が特別な事を説明していない限りは電話に出る事が可能です。
ですが運悪くこの時は1年生最後の課題、
自分のコレクション提出についての説明をしていた時。
でも、知らぬ固定電話の番号通知で、
あまりに何度も繰り返し鳴り続けるので、
何時もと違うぞ!と思い電話に出ました。

そしたら全く聞き覚えのない声で、フランス人女性が何やら話しています。
お花がどうの…あなたは何時に家にいますか?・・・
あなたの可能な時間帯は…etc・・・
あまりに早口で、そして身に覚えのない事を話しているのと、
授業中だと言う焦りもあり、余計に理解が不能となり、
その時傍にいた校長先生に電話を委ねました。
そうすると、『あなたにお花のお届けものがあるそうです。
何時なら受け取る事が出来ますか?』と。
私は『え!?誰からですか??そんなお花を贈ってくれるって…』と言うと、
花束=男と言う感覚が一般的なフランス。
さすがはアムールの国。
花束のプレゼントと言う言葉に、
クラス中が興奮し、男からのプレゼントだと、
相当な盛り上がり状態に。。。
しかも校長先生が一番盛り上がっているのがまたウケる。
そんな彼はゲイで、そして恋愛一筋に生きています。
なので何時も人の恋愛話にもとっても興味を示します。
そんな中私の質問の答えはと言うと、
『あやからだ!!』と校長先生。

なんと、私の親友からのプレゼントだったのです。
どんな手段で、
日本からこのフランスのお花屋さんにお願いしたのか分かりませんが、
しかも、私の帰国を楽しみにしていると…
そしてこんな私にいっぱい元気を貰っていると…。
ローマ字で打たれた、そんな素敵なメッセージと共に…。
思いもかけなかった花束の贈りものと、そしてそのメッセージに、
何とも言葉にもならない感動でした。

この親友とはもう13年来の付き合いで、
何時も本音をぶつけ合い、そしてお互い歩み寄り、
相手を受け入れ認め、そして尊敬し、これ以上にない程の交友関係を
出逢ってから今日までずっと続けています。

彼女は硝子の様に繊細な心を持ち、それでいて芯は本当に強い。
そんな私にはない魅力を持った本当に素敵な友人です。
私はこんな彼女の事が大好きで、どんなに遠く離れても切れない絆を、
今回留学中に培いました。

日本には帰りたくない。ずっとParisで暮らしたいと、毎日悩んでいる私。
でも…彼女の様に大切な人を想うと今すぐにでも帰国したいとそう思います。
そんな素敵な友人と、
これからも友人で居続けられる私は、本当に恵まれています。

家族と彼と友達と、大切な度合いが一直線上に揺ぎ無くある私の人生。
そんな私の人生の中で、これからも決して欠く事の出来ない、
大切な大切な親友。。。
こんな素敵なあやに、心からの感謝の気持ちを込めて、
『本当にありがとう』と言いたい。

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あやから届いた花束

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        花束と一緒に
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        家中にお花をーテーブル編ー
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        続いてーラック編ー
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        更にはートイレ編ー
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この素敵な親友があやです☆(ハワイ旅行の写真)
前回のブログで、
次はハンガリーの旅行記をと書いていましたが、
旅行のブログは結構骨が折れる仕事なので、
ここでちょっと息抜きに、
いつものブログをと思ってタイトルをこれにしてみました。

Parisに来てからもう10カ月が過ぎ、
そしてそのほとんどの月日を『寒い!!』
と言いながら暮らしていた気がします。
そんな長く寒い冬のParisでのとある私の休日と、
そしてめっきり暖かくなったParisでのとある私の休日を
紹介してみたいと思います。

今年の年明けに、
年末からずっと開催されていた野外スケートリンクに行ってきました。
“Hotel de vill”と言う駅前の、歴史的建造物前に、
冬季数カ月に亘って開催されていたスケートリンク。

私は日本にいる時から、春ならお花見、夏なら海、
秋なら紅葉、冬ならスケートと、
そんな季節感溢れる遊びをするのが大好きで、
Parisに来てからもやっぱりそれは変わらず、スケート!!と聞いたら、
行かずにいられるはずもなく、友達4人で行って来ました。

そんなに大きくはないスケートリンクでしたが、
Parisの歴史深い建物の前で味わうスケートは、
日本で味わうスケートリンク場とは一味も二味も違うものでした。
同じスケートでも、周りの景色が違うだけでこんなに違うものかと、
改めてシチュエーションの影響力を感じました。
ドラマや映画にもBGMがないのとあるのとでは感動の大きさが違うのは、
きっと耳から入ってくる音の影響力が強いから。
シチュエーションは目で感じる影響力。
人間気持ちだけでは、事足りない事もあるのだな…ってそう思います。

だからやっぱり大切な人を惹きつけておくには、
綺麗でいる事は本当に大切です。
そして、思った気持は口に出して伝える事。それも本当に大切。
人が人に目で与える影響力、
そして耳で伝える影響力はきっと想像以上です。
日本で長年連れ添った夫婦が『言葉はなくともあうんの呼吸で』とか、
『好きであればどんな格好していたって…』ってそれは本当のようでいて、
あまり本当ではない気がします。

話は反れましたが、冬のParisを私はこんな風に楽しんでいました。
夏にも行ったベルサイユ宮殿、
雪のベルサイユ宮殿に行ったりもしました。

そして今はひたすら思い焦がれた春が
やっとParisにもそこまで来ています。
そんな小春日和のある休日、
Parisで自転車デビューを果たしました!!
Paris市内には、ヴェリブと呼ばれる公共の自転車レンタルがあって、
Paris市内のありとあらゆる場所に
そのべリブと言う自転車が設置されています。
1年で27ユーロ、そして20分以内に別の自転車置き場で乗り換えれば、
1日1ユーロで乗り放題です。
このシャレた試み、サルコジの仕業です!

Paris市民にはさながら、観光客にもかなり人気があり、
至る所でべリブに乗っている人を見かけます。
通常1つの自転車設置場に20台近くの自転車がありますが、
ルーブル美術館横のチュールリー公園付近や、
セーヌ河沿いなど、人気の場所には全て出払って事が多々あり、
その場合はまた別の場所まで捜しに行かないといけないのが少し面倒です。

もともと自転車好きの私。
京都にいる時から移動は常に自転車でした。
そんな私がParisで自転車デビューを果たすのは時間の問題でしたが、
あまりにParisが寒かったために、
とてもそんな自転車なんて気分にはなれずに、
ここへ来てやっと遅めのデビューを飾ったのでした。

そんなにツイてない毎日だけど、そしてただ必死に生きているだけだけど、
家の傍からべリブに乗り、凱旋門を超え、
シャンゼリゼ通りを下り、コンコルド広場を通り過ぎ、
ルーブル美術館の前まで春のParisを自転車で走り抜けると、
1年近く暮らした今でも、未だに非日常的な錯覚に捕らわれます。

憧れたくなくとも、そこはやっぱり花の都Paris、
そしてアムールの街Paris。
恐るべしParisです。
どんなにフランス人が怖くとも、きっと一度Parisに住んだ人は必ず、
この街にまた戻って来たくなるはず…。
日本よりもHappyがそんなに簡単には訪れない
手強いこの街をそれでも好きなのは、
歴史深きこの建物の相乗効果なのかも…。

冬のParisも好きだけど、春はどの国でも気持ちがワクワクさせられます。
来年の春を迎える時、私はどこでどんな風になっているのか、
ふとそんな事を考えながら、残り少ないParisの春を感じてます。
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         仲良しのえりちゃんとさよりちゃん
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         完全防備の私
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         ヴェリブデビュー
1回で終わらせるつもりが2回になり、結果おまけ編にまで…。
ウィーンには本当に魅力がいっぱいです。

おまけその1
チョコ好きには見るだけで笑顔になれてしまうというケーキ
ザッハトルテ。
このケーキの故郷はオーストリア。
そしてその生まれた街はウィーンに建つホテルの“Café ザッハトルテ”

このケーキはここで誕生したのです。
ウィーンに着いて、そのCaféを訪ねる日まで待ち切れず、
適当なCaféでまずはザッハトルテもどきのケーキを食べました。
おいし~と喜んでいたけど、本物はやっぱり違う。
味はさながら、Caféの佇まいから、雰囲気、そしてサーバーに至るまで、
全てが本物でした。
たかだかケーキを食べ、お茶を飲むのにクロークにコートを預け(しかも有料)
皆何となくドレスアップしている雰囲気。
このザッハトルテと言うCaféは高級ホテルの1階にありました。

そんな素敵な場所で、超アジアティックな顔の私達は
微妙に浮いている気もしなくもなかったですが、
そこで怖気づいていては負けです。
意気揚々と入店し、そして満面の笑みでザッハトルテを食べて来ました。
超おいしぃいいぃいいーーーー!!
無類のチョコ好きの私には幸せ過ぎましたぁぁ。

そしておまけその2
それは皆が知りに知った存在、著名な音楽家たちが眠る墓地
ウィーンを旅立つ数時間前、
移動の最終時間に間に合うか一か八かの賭けで、
行ってきました!!

ここはやっぱりO型。そして友達のえりちゃんはB型。
そして私のお母さんはB型。やっぱり適当です。
見たいものは見たい。行きたいものは行きたい。
遅れた場合はまたその時考えれば良いかと、
そして間に合いそうになければ思いっきり走れば良いかと、
意見が一致したので、全速力で見て来ましたぁ。

ベートーベン、シューベルト、ブラームス、ストラヴス…。
そんな数々の音楽家が眠る墓地。
パリにあったの華やかに飾られたお花の数々はなくとも、
そのお墓から今も放たれる知的で優雅な雰囲気。
生前の才能を今もこの国の人々が名残惜しんでいるように思えました。

長々と書いてきたオーストリアの旅もこれにて終了です。
輝いていた街ウィーンを背に、次はハンガリーへと向かいます。

期間限定なりきりパリジェンヌ留学日記

           Café ザッハトルテ
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           そこで嬉しそうな私
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           ここで生を受けたザッハトルテちゃん
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           ベートーベンのお墓
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           シューベルトのお墓
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           ブラームスのお墓
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           ストラヴスのお墓
そして2日目。
今日は朝からフランスの歴史で忘れる事が出来ない女性…。
それは確実にマリー・アント・ワネットの存在。
その母であるマリア・テレジアの王宮を訪れました。
1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と
皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生したマリア・テレジア。
カール6世の最初の女子であり、
両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、
マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。
「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、
市民からの人気も高かったそう。
1722年からウィーンへ留学に来ていた
又従兄のロレーヌ公子
フランツ・シュテファン(フランソワ・エティエンヌ)に恋し、
その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」と
イギリス大使が記しています。
オイゲン公によりプロイセンのフリードリヒ(後の「大王」)
との結婚案も浮上しますが、
父カール6世もフランツのことを大変気に入っており、
1736年の2月12日に2人は婚礼をあげました。
当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚でした。
それまでハプスブルク家はサリカ法典に基づく男系相続を定めていたが、
彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子がいなかったことから、
やがて次期後継者と目されるようになりました。
カール6世は国事勅書を出して国内および各国に、
彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・
モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、
ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせました。
また、女子が皇帝になることはできなかったため、
帝位には娘婿のロレーヌ公(1729年に父レオポルトから公位を継承した)
フランツ・シュテファンが就くことなりました。
しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、
彼女に政治家としての教育は施さなかったようです。
そんな彼女は、国の政治を治めながら、16人の子供を産み育てました。
ですが、そのほとんどの子供を政治の道具として扱っていたそう。
国と国とを結びつかせ、自ら治めた国をより発展させるための、
政略結婚を子供達に強要したようです。
その犠牲になった一人がマリー・アント・ワネットであり、
その自分のやり方については
『全く疑問もなく、後悔もない。国のためであるから』と、
彼女はきっぱりそう文書に記しています。

そして、ウィーンの市内から少し外れた郊外にその王宮は佇んでいました。
この日は朝から大雪の猛吹雪。
でもめげる事なく私達は道を進みます。
マリア・テレジアを無くしては、
マリー・アント・ワネットを深く知る事はできません。
その王宮は、マリア・テレジアの娘が建てさせた
ベルサイユ宮殿に豪華さは劣るものの、
シンプルに無駄なくでも上品に数々の部屋が装飾されており、
ベルサイユ宮殿よりも落着きがあり、さっぱりとまとめられていました。
王宮内は写真撮影が不可だったため、
1枚きりの写真と外観しかブログに載せられないのがとても残念です。

王宮を見終えた後、次に向かったのがこのマリア・テレジアとフランツ、
そしてエリザベートが今も深い眠りに就いている墓地です。
墓地と言ってもここは王族のみしか眠っていない教会の地下。
ハプスブルグ家の決まりとして、
内臓と体は全て取り分けられ別々の場所に埋葬されています。
私が訪れたのは内臓が取り出された状態の、
体のみが棺の中で安置されている場所でした。
豪華絢爛な棺の数々でしたが、
ハプスブルグ家の歴史を深く感じ、でもとても重く、
言葉がありまり出ませんでした。
マリア・テレジアとフランツの棺は、
彼女が数多く注文をつけ作らせた二人が一緒に入れる棺。
二人用の棺を私は初めて目にしました。
シシィは無駄な豪華さを嫌い“質素”な物を生前好んでいた通り、
王妃にしてはかなり質素でシンプルな棺となっていました。
こんな最後の最後にまで、人それぞれこれだけの違いが出るんだと、
人は本当に10人10色、100人100色です。

そして夜はウィーンに着いた当日苦労して予約した、
“ウィーン・フィルハーモニー交響楽団”のコンサートへ行って参りましたぁ。
パチパチパチ~。
ピアノとクラリネットをやっていた私は、音楽にはかなり興味があって、
日本でも良く演奏を聴きに行きます。
そんな私の憧れだった(まぁミーハー的な感じで)
ウィーン・フィルハーモニー交響楽団、
そしてウィーン少年合唱団。
ウィーン少年合唱団は日程が合わず断念でしたが、
1つでも味わえただけで大満足でした。
チケットを持ち、かなりのハイテンションで臨んだコンサート。
そこでもまた心温まる出来事がありました。
隣の席に座っていたおば様達。
私達が見にくいだろうと、最後のスタンディングオベーションの時、
『あなたたち、見えないでしょう?前に行きなさい!』と、
そう言って前に行かせてくれ、自分たちだって見たいだろうし、
写真だって撮りたいだろうに、こんなアジアティックな私達二人に、
本当に親切でした。
何とも本当にどこへ行っても、誰に何を聞いても、
100%親切な対応をしてくれるオーストリア人。
こんな国民性にどうしてなったのか…
自然にオーストリア人に限りなく興味が湧いてきた私なのでした。
この広い世界。
数えきれない程の国が集まり、出逢えきれない程の人々がいます。
その中でこうしてこの国に来れた事、そしてこのウィーンでほんの一瞬でも、
こやって親切な人々と触れ合え存在を知れた事がすごく感動でした。
この国から出たくないと本当にそう思えた国オーストリア。
そして何時かまた必ず、このウィーンを訪れたいと思いました。
次は必ず、心から大切に思う母を連れて…。
ウィーンは私の母がずっと訪れたがっていた街。
一足先に下見をしに行ったけど、この街はお母さんが想像するより
ずっとずっと素敵な人と文化で溢れていたよぉ☆☆

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      マリア・テレジアの王宮
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      1枚きりの内装写真
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      マリア・テレジアとフランツ・シュテファン、二人用の棺
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エリザベートとフランツ・ジョセフ、そして一人息子ルドルフの棺
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      コンサートホールの前にて 開演前に      
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      ウィーン・フィルハーモニー交響楽団その①
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      ウィーン・フィルハーモニー交響楽団その②
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      ハイテンションの私
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      コンサートホールの内装
ヨーロッパではお馴染みユーロラインズの長距離バスにて、
チェコからオーストリアはウィーンへとおよそ3時間の移動。
移動中の車内からの景色はほとんどが雪景色。
途中休憩を取った時には、長靴でも履いていない限り、
到底外には出られない程の積雪でした。

朝一のバスに乗り、昼過ぎにオーストリアに到着し、
まずメトロの券売機の前で迷っていると…
すぐにアジア系の顔した女性が声をかけてくれ、
丁寧に全て教えてくれました。

その出逢いを筆頭に、それからのオーストリアの印象は、
最後の最後まで上がる一方で、
オーストリアという国、『街もそして国民性も最高級』
と言う私と友人の評価です。

オーストリアには2泊3日。
その2泊3日では足りないほど、ウィーンは本当に魅力的な街で、
音楽とシシィとザッハトルテ…
私の大好きな物がぎっりしり詰まった国…。
夢心地の3日間…。

オーストリア・ハンガリーは
2大帝国をエリザベートが築き上げた国。

彼女はバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系の
バイエルン公爵マクシミリアンと
バイエルン王女ルドヴィカの娘として生まれました。
幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、
チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり
(もちろん、住民は極めて身分の高い王族の公爵と公女であると
知りつつも知らぬそぶりで歓迎していたそう。
エリーザベトは後年、
私が唯一自ら稼いだお金と言ってそのチップを大切に保管していた)、
公務とは無縁の傍系王族の彼らは、自由を満喫していました。
そんな生活が終わるのは本来エリーザベトの姉
ヘレーネの見合い相手だった、
母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められたからでした。
2人が婚約することになり、エリーザベトは16歳で結婚、
オーストリア皇后となったのです。
ですが自由人だった父の気質を多く受け継いだ皇后は、
母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる
宮廷の厳格さが耐えられませんでした。
極度の対人恐怖症の彼女は宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、
大西洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に行ったり、
夫の同行でイタリアを訪問したり、
個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、
理由と口実を見つけてはウィーンを離れていました。
そして特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、
当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーでした。
穏健独立派のハンガリー貴族アンドラーシ伯爵と知り合い、
1866年の普墺戦争敗北を受けて、
翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を
締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たしました。
アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、
帝国外相となりました。
エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺でした
(1889年、暗殺説もあるようです)。
夫の死後喪服を着続けた女帝マリア・テレジア(実母)の真似をし、
その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐ事はなかったそうです。
そんな波乱に満ちた人生を送ったエリザベートことシシィ。
1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、
イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニにヤスリで
心臓を刺され殺害され生涯を閉じたそうです。

そんな彼女が生活していたと言われる宮廷と、
そして彼女が愛した数々の調度品を見学に…。
彼女が生活していた王宮は、本当に彼女が美に対して、
並々ならぬ執着心を持っていた事が手に取るように分かりました。
と言うのも、当時では考え難いような、
体を引き締めたり鍛えたりする、今で言うスポーツジムの様な器具が
幾つも揃えられており、皇后の部屋とは思えない光景でした。
その横には体重計が置いてあり、
彼女は毎日毎日続く苦しいトレーニングと引き換えに、
ヨーロッパきっての美女の称号を手に入れていたのです。
何も努力なくしては手に入るものなど一つもない。
それが手に取るように分かった予想外の結果でした。

その日は1日シシィに費やし、そして夜は…。
ウィーンに来て見逃す事は出来ないと言われるロマンチックな地区。
“リング” リングとは、日本で言う環状線。
その環状線を取り巻く光景なしではウィーンは語れないそう。
あいにく行った時期が冬だったので、そのリングの素顔をあまり
堪能する事は出来ませんでしたが、
(花などはすべて枯れているし、寒いので閑散としているため)
その一角にある、今話題のレストランへと足を運びました。
そのレストランを見つけるのに本当に一苦労で、
人通りが少ないのであまり道を聞ける人がおらず、
結局別のレストランに入ってそのレストランの場所を尋ねるしかなく、
かなり失礼な結果となってしまいましたが、
そのレストランのオーナーも、これ以上にない程親切で、
普通なら『うちで食べて行きあがれこの野郎~』的なはずなのに、
丁寧に道を教えてくれ、
逆にこっちの方が申し訳ない気持ちにさせられました。
そして1時間ほど迷った末行きついたレストラン。
予約していなかったのですが、
すぐに席を空けてくれ通してくれました。
ですが、メニューが全てドイツ語のため、
全く内容が理解できず、
周りを見渡しては『どうする?どうする?』と
言っていた私達の隣に、
サラリーマン風のおじ様達が会食をしていました。
私達が『これがあの人が食べているパスタじゃない?』
と言っていた事に気がつき、
何とそのおじ様、自分が注文したばかりのそのパスタを、
一口もまだ食べていないのに、小皿に取ってくれ私達に
『味見してみて、気に入れば頼めば良いよ』と分けてくれたのです。
素敵過ぎる…この街の人々…。
そんな人日本にもそうそういやしません。
パスタの味付けなんて、もうどうでも良くなって、
ただただ感動しながら、
私がこよなく愛す、大好きな夕食タイムを過ごしたのでした。

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メトロで乗り方を教えてくれた人とばったりウィーンの街で再会☆
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       エリザベートが暮らした王宮
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       シシィが愛した調度品を見に
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       リングにある話題のレストラン
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       レストランの雰囲気はこんなに素敵!!
ここ最近、自分を取り巻く全ての問題点から、
フランス人を理解するために考え考え抜いて、
やっと1つの答えを見つける事が出来ました。

それは何かと言うと…
毎日の生活から恋愛に至るまで、
日本人は全ての事に関して何でも“線”で考えるのに対し、
フランス人は全てにおいて“点”である事です。

例えば、何か人に言ったり自分が行動をとったりする時、
先の未来を見つめつつ、過去の経験も振り返った上で、
後先を考えこれからの言動の選択をします。
『もしこう言ったら人はどう思うだろう。そしてどんな結果になるだろう』
『前回こうやった時こうなったから、今回はそれはやめておこう』
と言った風に。

それは言ってみれば、日本人は未来と過去を線で結び、
そしてその線の上を歩いています。
その途中で立ち止まり何時も自分で選択をしながら、
自分自身の言動を決めている。
恋愛でもそうです。
年齢に関係なく、中学生でも高校生でも、
深くは考えていなくとも、
基本的には“このままずっと続けばいつか結婚…”
と言ったような考えが少なからず日本人ならきっと誰でも
漠然と頭のどこかにあると思うのです。

それに比べフランス人は全ての考えが点。
『これを言ったらどうなるだろう』とか
『前回こうして失敗したから今回は…』なんて概念はなく、
思った時には後先を考えず全てを口に出し、
そしてそれを言った後の結果はどっちでも良く、
言った時点で気が済み、それでその話は終わり。
後にも引かない代わりに、成長もないと言ったところでしょうか。
恋愛に関してもそれが強く出ている様に思います。
毎日毎日言う事が変わり、心変りもすごく早いと聞きます。

昨日『je t’aime』と言いながら愛しい目をしていたとしても、
翌日には『もう君とは終わりだね』
と言う事も珍しくはない光景です。
日本人的感覚で言えば、騙していたのかと、
あの時は嘘を言っていたのかと、
そう言いたくなるところですが、
それは残念ながらそうではないのです。
“その時は本当にそう思ったから言ったんだよ”が全ての理由です。
フランス人はその時は本当にそう思って言葉を口にするんです。
だから決してそれは嘘ではなく真実。
ただ考え方が点なので、
本当に未来の事も過去の事も考えてなんてないんです。
その瞬間の事だけしか…。

なので、このままうまく行けば結婚…なんて考えはなく、
うまく行っている二人の時の点を繋ぎ繋ぎ、
それが続けば人生が終わった時に線になったと言う結果になるだけで、
考え方は全く持って点にしか過ぎないのです。

なので日本人は何時もフランス人に振り回され、
気持ちをかき乱されながら生活しています。

このフランス的“点”の国民性。
きっと日本では通用しないだろうし、
それを試したとしたら沢山の人が傷つき、
きっとその人は誰からの評価も悪くなるはず。
でも、自分自身の人生にうまく取り入れる事は出来ます。
“点”の考えは決して悪い事ばかりではなく、
言い方を変えれば人生を楽しむプロなんです。

嫌な事や辛い事があっても決して引きずらず、
クヨクヨなんて言葉はありません。

一瞬一瞬を新たに生きていて、
フランス人は本当に人生を楽しむのが上手。

“線”の上を生きている日本人の様に、
取り越し苦労やトラウマは概念にすらありません。
恋も仕事も生活も、今だけを見て精一杯楽しみ、
そして辛い現実はサラリとかわして新たな瞬間へと身を委ねるのです。
このテクニック本当にすごいです。

取り越し苦労とトラウマと三人四脚で生きてきた私としては、
今はまだ使いこなせない技だけど、
遥か先に明るい光が見えた様なそんな気がしました。
日本人の、人の気持ちを思いやり、今までの経験を振り返りながら、
誠実な気持ちで未来を見据える。
そんな“線”の思考。

そして、自分を素直に表現し、意思を伝え、
瞬間瞬間を目一杯楽しむ。
そんな“点”の思考。

この2つの生き方を、人を傷つけないように、
そして迷惑をかけない程度に使いこなせるようになったら、
きっと向かうところ敵ナシの人生を送って行けそうな気がします。

今このブログを読んでくれている全ての友人に、
この私がフランス人を理解するしかない環境の中で見つけた、
素敵な人生のこなし方を、
是非たった今から試して頂きたいと思います☆

Je t’aime ...mais, je ne sais pas demain!!
(あなたを愛しているわ…でも明日の事は分からない!!)