【検証・文革半世紀 第2部(7)完】

著名作曲家の馬思聡に「草を食え」 日本人になりすまし決死の脱出も

 

                                                        2016.6.27

 

 中国の文化大革命(文革)の時代、海外に逃亡する道を選んだ人々がいた。公式統計はないが、数十万人は下らないと推測する研究者がいる。捕まれば死刑になることは覚悟の上で、自由な世界を求めた。

 中国を代表する作曲家でバイオリン奏者の馬思聡(1912~87年)は、音楽修業のため11歳のときフランスに渡り、パリ音楽院などで学んだ。帰国後、「揺籃(ようらん)曲」「チベット音詩」などの名作を発表した。49年の新中国成立後、中央音楽学院の初代院長に任命されたが、文革開始と同時に悪夢が始まった。

 「価値を創造しない音楽家は、労働人民の血を吸って生きている」と紅衛兵にののしられ、批判大会で「吸血鬼」と書かれたプラカードを首にかけられた。学校の庭で草むしりをさせられていたとき、「名字が馬だから」と草を食べるよう強要されたりもした。


 67年1月、馬は妻子と広東省から香港への密航船に乗った。ブローカーに支払った額は、当時の中国人労働者の生涯賃金を超える5万香港ドル(現在のレートで約66万円)。検問が甘くなる豪雨の深夜を選んで出発し、香港政府の管轄水域に入ったことを確認すると、胸に着けていた毛沢東バッジを剥がして海に投げ捨てたという。


 香港から米国に渡った馬は同年4月、声明を発表した。「祖国と人民を愛している。しかし今、中国で大きな悲劇が起きている。文革は中国の知識人に壊滅的な打撃を加えている」

 公安省は特別チームを結成し、馬の親類や友人など数十人を逮捕、投獄した。文革後、馬は名誉回復され中国政府は何度も帰国を要請したが、二度と故国の土を踏むことはなかった。


 日本人になりすまし、空路で海外を目指した者もいた。政府系外交団体の職員だった関愚謙の脱出劇は「奇跡」と称された。

 農村に下放され、過酷な体験をした関は37歳だった68年の夏、再び文革派の標的に内定したことを知り、自殺しようと思い立つ。

 職場でカミソリを探すため引き出しを開けたところ、数冊の外国人の旅券があり、中でも「西園寺一晃」という日本人の顔が自分と少し似ていることに気づいた。一晃は明治の元老、西園寺公望のひ孫。当時は友好人士として中国によく出入りしていた。

 「これを使えば海外に逃亡できるかもしれない」。カイロ行きの航空券を電話で予約した関は翌日、家族にも何も告げず出発。空港のトイレで背広に着替え、メガネとマスクをした。


 仕事で空港に出入りしていた関は出国手続き中、何人もの顔見知りと出合った。最後に旅券をチェックしたのが日頃、待合室でよく雑談する警察官の劉だった。心臓が飛びだすほど緊張したが、劉は静かに旅券を返してくれた。

 カイロをへてドイツに亡命し、後に大学教師となった関は後にこう語った。

 「無謀な逃亡が成功する確率は0・1%もなかった。劉さんたちはわざと見逃してくれたのではないか。文革中、あまりにも多くの人が冤罪と絶望の中にいたことを、彼らは知っているからだ」(敬称略)

 

=第2部おわり


   


 中国総局 矢板明夫が担当しました。



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