みなさん、覚醒は進んでいますか?

 

悪魔の内心で、シュタイナーの「死後の生活」から引用して、次のように書きました。

時代の要求に少しでも耳を傾けることができる人には、悪魔のささやきが聞こえます。悪魔はすぐそばまで近寄っています。悪魔がすぐそこにいるのです。迷信なのではなく、「悪魔はすぐそばにいる」のです。

 

誘惑者(悪魔)は、自然科学的自然観を徹底させるようにささやきかけて、「お前たちは単なる高等な動物にすぎない。お前たちは動物なのだ」と言うのです。この言葉の意味は、「お前たちは進化した動物にすぎない。だから自分のことを理解すれば、善と悪を区別することなど許されないということがわかるはずだ」ということなのです。

 

私たちの時代が移行期であるというのは、私たちの時代に誘惑者がこのように、聖書の言葉とは正反対のことをささやき声で語り始めているということなのです。

 

「善と悪を知ることができる」と悪魔は言います。

そして取引をします。

その内心では、お前たちは動物だ。動物に善と悪を区別することなど許されるはずはないと考えているのです。

 

私たちにとって、霊的世界(精神世界)は天国です。宇宙です。

そして、地上は地国(じごく)です。

 

私たちの地上世界と精神世界は天国と地国(じごく)の関係であり、ポジとネガの関係です。

 

善悪を知ることができるのは、「精神」です。

ですから、地上世界(じごく)の唯物的世界では善も悪も存在しません。

太陽が悪人にも、善人にも平等に注ぐようにです。

 

テクノロジーは善でも悪でもありません。

しかし、それをどのように使うかによっては、人に幸福をもたらしたり、武器になったりします。

 

ですから、私たちがテクノロジーを発展させ、唯物的な追及をすることは、人を幸福にでも不幸にでもすることができ、その技術が高度であればあるほど、莫大な幸福をもたらすと同時に莫大な不幸をもたらす可能性を秘めているのです。

 

私たちが真にテクノロジーを扱う資格を得るには、私たちは同時に人間の中に道徳心や倫理観を育てる必要があるのです。

それは強制されるべきものではなく、個々の精神性の中から直観的に得ていくものなのです。

 

ですから、地上世界(じごく)で高度な技術を扱えるようになるためには、同時に精神世界への理解と認識が必要となるのです。

 

そのことによって、はじめて私たちは善悪を知るのです。

だから悪魔は動物である人間には善悪を知りえないというのです。

精神性を担った人間になって善悪を知りうるからです。

 

私たちは、悪魔の誘惑のあるこの地上(じごく)へ降りてきて、その誘惑と戦うことによって、善悪を認識する精神性を高めることができるのです。天国にいては発達させることができないからこそ、あえて私たちは地上(じごく)に降りて来るのです。

 

そして、そこで誘惑を受け、お金やモノを与えられ、お金やモノだけが現実であり、精神世界など、実在しないし、そんな役に立たないものは捨てろと言われ続けるのです。

 

そうして、動物のようになり、善悪の認識から遠ざかるように誘導されていくのです。

 

それを振りきれるか、その誘惑をはねのけて、精神世界を自らの力で見出せるかどうかが、私たちのこの地上(じごく)の試練なのです。

 

父なる神の領分に属する真理は、私たちが思考行為に没頭し、その行為を徹底させることができればそれによって得ることができるものです。

唯物論者であるというのは、非論理的であるということと同じなのです。

思考の力で神的なものまでは至ることができます。

しかし、同じ仕方で単なる哲学的思考によって「キリスト」を認めるようになることはできません。

 

人間であることの最高の尊厳は、キリストという高次の真理を認識することにあるのです。その真理は強制されるのではなく、自由な行為として獲得されるのです。

 

キリストを認めるためには、真理衝動を能動的な仕方で自分の中に喚起しなければなりません。キリストを認めるのは、私たちの自由行為でなければなりません。

自由行為によってもたらされる工事の真理こそが「信仰の真理」なのです。

 

(ルドルフ・シュタイナー「死後の生活」 P160より)

 

唯物的思考にとどまらずに、真に思考行為を没頭させることができれば、私たちは神の存在を自明のものに考え至ります。

 

私は17歳の時に苦悩の末、生きる意味を問い、自分が単に生ま「された」存在ではなく、意思して生まれて「きた」のだと気づきました。

自分は生まれることを意思し、親を選び、国や時代を選んで生まれてきた。その認識は人生におけるすべての責任を自らが担うということでもあります。

そのような生まれる前の意思はどこから生じたのかと言えば、過去世からに他なりません。私たちは単に生まれてから死ぬまでの存在ではなく、輪廻転生を繰り返し、魂を成長発展させる任務をになっているのだと気づきます。

そして過去世が今世につながるのであれば、今世もまた来世につながるのであり、今の在り様が未来の自分を規定するのです。

自己責任とは、すべてを自らが引き受けることであり、今世の在り様も、来世の在り様も、すべて自らの責任なのです。

 

では、その私の魂を生み出したものは何か?

それこそが私にとっての神でなければなりません。

私の意思を超えたところに、神が存在するのでなければ、私は無から生じたという矛盾が生じてしまうからです。

 

こうして神の存在は論理的帰結するのです。

 

ところが、キリストは神の子であり、私たちもまた神が生み出したものであるなら、キリストは必然とは言えません。生まれたかもしれないし、生まれなかったかもしれないからです。

 

キリストは私たちの在り様を自ら問うことで、精神性を高めよというのです。

しかし、それはあくまでも自由意思でです。

道徳を超え、慈悲を超え、愛に至れというのです。

 

神はすべての存在を許し、等しく愛を与えます。

 

しかし、キリストは自らが見ようと意思しない限りはその存在を見出すことができないのです。

そのキリストを見ようとする意思は、精神性を高めようと願う自らの意思です。

精神性を高めようと意思しない限り、キリストを見出すことはできないのです。

そこに、私たち人類の未来の進化した姿、理想があります。

進化から逸脱した悪魔に誘惑され、進化から逸脱しようとする人間に対して、キリストは救世主なのです。

 

悪魔は反キリストです。

キリストの道に人間を進ませないために、障壁となり、誘惑して道を逸らせるのです。

ですが、悪魔が存在することで、私たちはキリストへの道を見つけ出すのです。

悪魔が反キリストであるなら、悪魔の示す道の反対がキリストの道だからです。

 

それはどこか、三途の川を渡るときに身包みをはがそうとする鬼と似ています。

鬼は身包みをはがし、丸裸にならなければ川を渡らせないと、門番をしています。

ところが、それは精神世界へ入っていくときに、この世への執着心があると精神世界へ参入できないことから、鬼の形相となって、私たちを𠮟りつけ、執着心を開放させようとする菩薩心なのです。

 

ですから、執着が強ければ強いほど、鬼の形相が険しく見えるのです。

ところが、執着心を捨てた人にとっては穏やかな菩薩に見えます。

 

ちょうど太陽と風が争って、旅人のコートを脱がせようとするのと反対です。コートを脱いでしまえば、あたたかな陽が降り注ぐのです。コートで身構えをすればするほど、風が強く吹き荒れます。

まさにミヒャエル・エンデの「モモ」の逆さま小路です。

 

恐怖に駆られて自分の身体を守ろう、コロナから守ろうとすればするほど、ワクチンを接種させられ、より感染しやすくなるのと同じです。

そこに執着心がなければ、ワクチンな打とうなどと考えさえしませんし、自然体で健康が維持されるのです。

 

マイナポイントを逃すまいとして、箱わなにかかる動物も同じです。

欲が餌に食らいつくのを悪魔は見て高笑いしているのです。

 

神の与えたこの身体の免疫力を信頼せずに、悪意のある人間が作り出した生物兵器を信じることに、人間の傲慢さと浅はかさが潜んでいます。

キリスト認識以前の問題です。