私は17歳の頃、受験勉強も嫌になって、現実逃避していました。

その少し前、クラスメートが自殺しました。

数人で、彼の自殺のことを、みんなでもっと考えなきゃならないのではないかと、問題提起したのですが、他のクラスメートは、受験勉強に忙しく、そんなことは本人の問題であり、

「私たちには何も関係がない!」

と言い放ったのです。

 

私はとてもショックを受けました。

 

そんなこともあり、私は

「なぜ、自分が生れて来たのか?」

「親も、国も、時代も自分で選んだわけではないのに、そこの生かされている。」

「私の意志はどこにもない」

「偶然に生まれ、死んだ後に何も残らないのなら、生きることにどんな意味があるのか?」

と悶々と悩んでいました。

 

いくら本を探しても、私の問いに明確に答える書物に出会うことはできませんでした。

 

「人間は何のために生きるか?」

こんな、誰もが考えるようなテーマに、なぜ答えがないのだろう?

 

それが私が感じたことでした。

 

私の考えは、本当の私の考えではなく、誰かの考えをどこかで聞いて、私の考えだと思い込んでいるだけかもしれない。

私の話す言葉だって、私が考え出したわけではなく、誰かの話す言葉を覚えただけだ。

そうすると、自分とは何であるのか、まるで見当がつかなくなってしまったのです。

 

私は何のために学び、仕事をし、お金を稼ぐのだろう?

死んでしまえば、何一つ、失ってしまうのに。

 

夜も眠れなくなり、寝ると金縛りにあうようになりました。

 

僕も死んでしまおう。

そう考えました。

自分は生まれたくて、生まれたわけじゃない。

自分の考えも自分の本当の考えでないかもしれない。

言葉だって自分が作り出したものじゃない。

死んでしまえば、全ての意味が無くなるのに、いったい何のために生きなきゃならないんだ?

自分の命を絶つことだけが、自分が唯一示せる自分の意志ではないのか?

 

しかし、その時、一瞬で変化が起こりました。

 

なぜだろう?

私は生きる意味を探したくて、生きる意味を問うたのに、

なぜ、死に行きつくのだろう?

 

そう考えた瞬間、私の中で、何かが崩れました。

前提が間違っている。

その前提が違うから、答えが違うのだ!

 

私は自分は偶然生まれてきたと考えた。

そこに自分の意志がないと考えた。

でも、その結果、自分の生きる意味を問うても、答えは自死にしか至らない。

ならば、前提が間違っているのだ。

私は自分の意志で生まれた。

私は親も国も時代も選んで生まれた。

 

そう考えた時、私の心に凝り固まっていた呪縛が解けたのです。

 

私は、「親や国や時代を自分の意志で選んで生まれてきたのではないか」という仮説を立て、その仮説を生きてみて、実証しようと考えました。

もしも、その仮説が、過ちであったなら、その時、私は死ねばいいと考えたのです。

その後も、まだ悶々とする生き方は続いていました。その仮説を完全には信じていなかったのです。

 

当時は、見出さなかった私の仮説を裏付けてくれる書物に出会ったのは30代に入ってからです。

ルドルフ・シュタイナーが「生まれて来る魂は、初めに母親を見つけ、母親の目を通じて父親を見つけて生まれて来る」と書いているのです。

 

17歳に感じて、仮説としていたことを、ようやく裏付ける書物と出会ったのです。

 

私の中では生涯、ずっと仮説です。

死後にはじめてその結論が出るでしょう。

私は仮説のままがいいと思っています。

しかし、この仮説はますます真実に近づくわりに、否定的な要素が今まで出てきていません。

 

 

自分が親や国や時代を選ぶということは、そこに意志があるということです。

選ぶということは、生きるシナリオを自分で設定してきているということです。

自分が生れる前に意志を持っていたとするなら、その意志した主体こそが、魂です。

そして、生前に魂が存在するなら、死後にも魂が存在し続けなければなりません。

 

生前があり、死後があると考えて現世を生きるか、

生前も、死後も、ないと考えて現世を生きるかでは、まったく生きることの意味が違ってきます。

 

では、何のために、生前の意思が、現世で生きようとするのか、体験しようとするのか、その結果は死後、どのように次の人生へと影響が及ぶのか?

そのような前提で考えを進めていくしかないわけです。

 

唯物論は目に見える物質的な自分しか信じようとしない視点です。

それに対して、精神科学は、肉体を超える存在を前提とし、物質的な自分と精神的な自分の二つの世界をつないでいくのです。

 

人間が唯物的思考にがんじがらめになってしまったのは、近年のほぼ100~200年程度のことです。

その前には精神世界、神々と生きる生き方をしてきました。

 

それを再び取り戻すキーワードは、

「私は母親を選んで生まれて来た」

という、ここから始まるように、私は考え、

夏目漱石の「」に出て来る、禅の公案、

父母未生以前本来の面目は何か」をテーマに掲げているのです。

 

映画「かみさまとのやくそく~あなたは親を選んで生まれてきた~」

映画『かみさまとのやくそく ~あなたは親を選んで生まれてきた~』予告編 from 熊猫堂 on Vimeo.

 

母親を選んで生まれて来ると考えると、子育ての意味がまた違って見えて来るのではないでしょうか?

 

選ぶということには一方的に子ども側に意志があるように思えますが、子どもが幼少期に出会う人は、前世につながりがあるひとです。

その意味では、単に選ぶというだけではなく、前世とのつながり、テーマも含まれています。

 

親子の間にはうまく行ことも、うまく行かないこともあります。

それらを含めて、前世とのつながりも含めて、今世のおけるテーマがあると云えるのではないでしょうか。