こんな記事を読んだので、

少し私の思いを。






イタリアでも2年ほど前、

アマトリーチェという街で

大きな地震があった。


山の上にある小さな町は、

築何百年なんてのもあり、

ほぼ壊滅状態。


世界から、実に多くの人たちが、

「寄付」というカタチで、

なんとか支援できないものかと

義援金が送られた。


イタリアで働いたことのあるコックさんたちは、

アマトリーチェにちなんで、

アマトリチャーナのパスタを振る舞い、

その売上金を

義援金と称して、寄付をした。


あれから2年経つが、

町は相も変わらず、崩れたままで、

避難生活をしている人々は、

冷え込む毎日を

機能しない暖房機具を備えた環境で

ひたすら耐える生活を送っている。


アマトリーチェの地震の数年前に

アブルッツォで起こった地震もまた

多くの人が多額の寄付をした割に

一向に復興していない。


多額の寄付は、どこに行ってしまったか?


私がつい、

疑問を持ってしまうところである。


イタリアの街のあちこちでは、

「私は貧しい人です。お腹がすいています。どうぞ私の家族のために、寄付をお願いします。」

なんて書かれたダンボールの紙をぶら下げ、

寄付を募る。


宗教的感覚からなのか、

それとも慈悲深いからかは

計り知れど、

それでお金を出す人々がいる。


私は時々思う。


こういうところで、

いくらか恵んでいる人々は、

例えば、

近くの人間が本当に困っている時には

手を貸すのだろうか?と。


親の代から稼いだお金を

しっかり使い込み、

体の弱った自分たちの親を

一人の介護に押し付けて、

自分たちは、顔も出さない...なんてことが

割にあるのはなぜだろう。


寄付をする...

そのお金が、本当にちゃんと生かされるのであれば、

喜んでしたい事なのだけど、

躊躇してしまうのは、

こんな事を考えてしまうからだ。


「被災地に行こう」


観光地で有名な

でも被害がそれほどでもない町に

前と同様訪れる事は、

実質、

寄付というカタチではなく

違うカタチの応援方法で、

これはいいな!

そう思った訳である。


応援するにも、

いろいろなカタチがある。


とりわけ、

道すがらに困っている人がいたら助けてみる...

というのも、

小さい事だけど

本当は

大事な事なんじゃないかなぁ...

なんて、

思ったりする私である。



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