前回は、英国オックス・ブリッジの共産党細胞(*共産党の基礎組織の旧称)が育てたケンブリッジ・ファイブ(キム・フィルビーら五名)や、オックスフォード留学の西園寺公一、米国ハーヴァードの法科首席であったアルジャー・ヒスなどの、一流名門大学で共産主義に染まり、ソ連のために諜報・謀略活動に従事した人々を見ました。尾崎秀實もまた旧制一高から東京帝大法学部政治学科を経て同大大学院に進みましたが、同大学の新人会(*細胞)に所属し「真正の共産主義者」となって、後にゾルゲに協力しつつ独自の政治謀略を行っていたわけです。「学士様ならお嫁にやろか、末は博士か大臣か」と謳われ、統計の取り方にもよるようですが、同世代の1~6%程度しかいなかったという旧制の高等教育を受けた戦前日本のスーパーエリートたちは、一体どのような学生生活を過ごしていたのでしょうか。そしてまさに1930年代の旧制高校や旧帝國大学では、マルクス主義はどのように受け止められていたのでしょうか。

 そこで今回は、猪木正道著『軍国日本の興亡** 日清戦争から日中戦争へ』(2021年中公文庫)に併録されている「軍国日本に生きる  猪木正道回顧録」から、「3 三高・東京帝大時代を振り返る」の一部を少し読んでみたいと存じます。同書**の著者紹介によれば、・・・1914(大正3)年、京都市生まれ、東京大学経済学部卒、三菱信託(株)、三菱経済研究所を経て戦後、成蹊大学教授、京都大学教授、防衛大学校長、青山学院大学教授を歴任。京都大学名誉教授、平和・安全保障研究所顧問などを務めた。主な著書に『ロシア革命史』『ドイツ共産党史』『政治変動論』『共産主義の系譜』『独裁の政治思想』『評伝 吉田茂』(全三巻)『私の二十世紀――猪木正道回顧録』『猪木正道著作集』(全五巻)などがある。・・・という方です。(*裕鴻註記ほか。尚数字等表記を一部補正)

・・・わが生涯の最良の三年間

 一九三一年(昭和六年)四月、私は多年憧れていた(*旧制)第三高等学校文科乙類に入学した。父も二人の叔父も学んだところであり、何よりも“自由”な学校として知られていた。三高は、私が期待していた以上にすばらしかった。上級生とか下級生とかいう区別はまったくなく、のびのびと学ぶことができた。私は水を得た魚のように勉学に励むはずであった。しかし半年間受験勉強に打ち込んだ反動が来て、私は毎晩、京都市内に出掛けていった。それだけならまだよい。学校へ通うことを怠ったのである。

 夏休みには、一高・三高戦の応援に全力を上げた。八月二十六日に濱口雄幸首相が、前年十一月に狙撃された傷が悪化して亡くなった。そして九月十八日には柳条湖事件があり、満洲事変が始まった。

 十月下旬だったと思う。学校から九月末の前期試験の結果を報せてきた。文科乙類だから、ドイツ語はとくに重要なのだが、すべて六〇点未満の不成績である。「これはいけない」と私はようやく眼が覚めた。それから三高の授業に追いつくべく毎日ドイツ語の勉強をした。学年末には、進級する者の名前だけが張り出される。いよいよその日が来た。下宿の朝食ものどを通らないような状況で出掛けていった。私の名前は幸い見つかった。二年生になると、一年の時に私と遊び回り、飲み歩いた悪友たちは、退学や落第させられ、一人もいなくなっていた。

 私は畏友斎藤誠君に勧められて、弁論部に入った。弁論部ではマルクス・レーニン主義の書物を読むことは、義務に近かった。私はブハーリンやタールハイマーの弁証法的唯物論とか唯物史観とかいう本を読んでみた。内容があまりにも幼稚で、公式的なのに、私はすっかり失望してしまった。マルクスやレーニンを神格化するような卑屈さを、私は軽蔑した。

 こんなつまらない“理論”にのめり込んで、「マルクス主義でない者は、人に非ず」という思い上がった態度をとる左翼かぶれの連中には到底ついていけなかった。私の公式的マルクス主義拒否症のもとは、小学生の頃からの科学的なものの考え方にあったと思う。中学二年生の時病死した、父の遺訓と言ってもよい。私は当分の間、日本語の書物は一切読まないことにした。ドイツ語の本ばかりを読むことによって、ドイツ語をわがものにし、かつ効率的に学べると私は考えたのである。

 (*一九)三二年(昭和七年)五月十五日に、海軍の青年将校と陸軍士官学校の生徒らが、七十七歳の犬養毅首相を射殺したことは、私に衝撃を与えた、このようなテロは断じて放置すべきでないと私は痛感した。弁論部の活動も、テロ排撃の方向に進んだ。五・一五事件の被告たちが厳罰されなかったことに、私は不満だった。荒木貞夫陸軍大臣が留任したことに私は大いに腹を立てた。荒木陸相が京都帝国大学へ来て講演した時、私は出掛けていったが、その内容は話にならないほどお粗末だった。

 (*一九)三一年(*昭和六年)はヘーゲルの没後100周年であった。ヘーゲルをものにしたいと考えていた私は、三三年(昭和八年)の夏休みに、信州野尻湖で勉強することにした。三高の図書館から『大論理(ロギーク)』三巻を借り出し、これと取り組んだ。この三冊本は、十九世紀の前半に出版された旧い版で、西田幾多郎さんが令息を失った供養として三高に寄贈されたものだった。七月十日過ぎから八月末まで五十日近く、私はヘーゲルの『ロギーク』を毎日七、八時間かけて読み進んだ。頭が疲れると、ヨットに乗ったり、野尻湖の周りを一周したりして気分を転換した。しっかり理解するため、私はノートをとった。八月末に全三巻を読了した時、私は天にも昇るほど嬉しかった。

   この頃から、私の頭の異変に気が付いて心配になってきた。頭がぼーっとして働かないのである。多分、私の大脳はヘーゲルの弁証法的論理学に消化不良を起こしたのだろう。このため、九月から予定していたカントの『純粋理性批判』は断念して、三高入試当時にも読みふけっていたドストエフスキーで頭を休めることにした。ドストエフスキーが大変深い人間洞察の作家であることを、当時の私はまだ理解していなかった。『罪と罰』も、『カラマーゾフの兄弟』も、単なる探偵小説ではないことに気がつくまでには、第二次世界大戦という地獄を体験しなければならなかった。

 三四年(昭和九年)の一月に私はマルクスの『経済学批判』を読んだ。マルクス主義者は嫌いだったが、マルクスはやはり大物であった。とくに『経済学批判』のあっさりとした、しかも論理的な文章は、私の気に入った。

 進学先を東京帝国大学にするか京都帝大にするかという問題は、滝川事件*が解決してくれた。(*言論弾圧の対象が共産主義思想から、自由主義的な言論にまで拡大されたといわれる事件) 東京帝大を受験することにした。法学部にするか、経済学部にするかという問題は、役人や裁判官にはなりたくなかったので、法学部を捨てた。社会科学を勉強したいという気持ちが固まり、結局経済学部を選んだ。

 私の三高生活は、“わが生涯の最良の三年間”と言っても過言ではないほど楽しかった。しかし入学の年に始まった満洲事変は、政府の不拡大方針にもかかわらず、拡大の一途を辿った。濱口内閣から若槻禮次郎内閣にかけての緊縮政策のデフレーションは、デフレーション独自の猛毒を日本経済の隅々にまで浸透させた。

 三三年(昭和八年)一月三十日、私が三年生に進む二ヵ月前に、ドイツではヒトラー内閣が成立した。私はドイツ社会民主党に憧れており、ワイマール共和国を愛好していたので、ヒトラーが政権獲得後、独裁体制を固めてゆくのには大いに失望した。三四年(昭和九年)三月早々、私たち三高文科三年乙組の10人余りは、そろって特急のつばめに乗り込んだ。東京帝大の入学試験を受けるためである。

            学問的立場に自信を持つ

 東京帝大経済学部は、低能教授と噂される先生が多いのにがっかりした。しかし救いもあった。三四年(*昭和九年)四月中旬に行われた新入生歓迎の講演会で、河合栄治郎教授と矢内原忠雄教授との熱弁に接したことである。河合教授は大変な雄弁である上、内容も感動的だったので、私はたちまち河合党になってしまった。講演を聴く新入生の中に、涙を流している者がたくさんいたことは印象的だった。

 二、三日後、河合教授の「日本におけるマルクス主義の功罪」というテーマでの社会政策開講の辞を聴きに行った。

 講義の内容は、大きく分けて三つの部分からなっていた。第一は、社会科学の伝統を欠く日本で、マルクス主義は社会科学全般の代役を務めたという点である。第二は、マルクス主義が社会科学の全分野を独占的に制圧した結果、日本の社会科学の健全な発展は不可能に近くなったという点である。そして第三点は、多数の前途有為な若い学生が、マルクス主義という麻薬的教義のとりことなった結果、共産主義運動の実践に乗りだし、悲惨な境遇に転落したという事実である。

 私は三高生活の末期に、図書館から『新評論(ノイエ・ルントシャウ)』というドイツの雑誌を借り出して、ドイツ人のソ連紀行文を読んだ。ちょうど第二次五カ年計画に突入した頃のソ連の国民生活が活写されていた。“社会主義競争”というスローガンを採り入れ、ソ連では極端な出来高払い賃銀制が導入されていた。そういう具体的なソ連像は日本ではほとんど紹介されておらず、ソ連を地上の天国のようにあがめるマルクス主義者が多かった。

 ソ連の実像について予備知識を持っていた私には、河合教授の社会政策“開講の辞”は大変理解しやすかった。また、これも三高時代に読んでいたヴェルナー・ゾンバルトのマルクス主義批判と河合教授のそれとの間には、似た点が少なくなかった。こうして東京帝大経済学部の一年生の頃、私は自分の思想的立場にいくらか自信を持てた。二年生になって演習に入ることが許されるようになれば、躊躇することなく河合教授の演習に参加しようと私は決意を固めた。

 それまでに、マルクスの主著『資本論』を読破しなければならない。再び野尻湖へ行き、外国人村の隣にあった坂口昂(たかし)先生(『概観世界思潮』の著者)の別荘を又借りした。高見沢女史という日本語学校の先生が坂口家から借りて、外国人村のアメリカ人女子大生らに日本語を教えていた。私たちは高見沢さんと交渉して二階の二間に住んだわけである。そこへほとんど毎朝やって来る米国の女子大生メアリ・アームストロングさんに英会話を教えてもらうことになった。(*中略) 彼女はアメリカ映画が日本人のアメリカ観をひどくゆがめていると説いた。ハリウッドのアメリカは、本当のアメリカではない。『若草物語』を見れば、アメリカを見直すに違いない、などなど、彼女の説教は一時間近く続いた。私はおとなしく拝聴した。彼女は牧師のお嬢さんであり、少しピューリタン過ぎたかもしれない。しかし、アメリカ合衆国の少なくとも有力な一面を教えてくれたと思う。アメリカは物質主義でもあるが、ピューリタニズムの伝統も軽視できない。私は一本の煙草のお陰で、アメリカの多様性に目覚めた。

 さて、午後は、アドラッキー版の『資本論』第一巻と取り組む。最終章「資本家的生産の一般傾向」を読み終わった時は、さすがに嬉しかった。

・・・(**前掲書314~320頁)

・・・愛国的な世論が戦争政策に賛成させた

 私(*猪木先生)は河合教授の演習には、「ドイツ社会民主党と世界大戦」というテーマのほかに、「再生産論を中心とした理論経済学」というテーマをつけ加え、そのどちらかで参加したいと申し出た。自分の読書歴を要約することも求められた。河合演習(*ゼミ)は志望者が多く選考となり、講師と二人の助手の面接を受けた。

 その翌日、私の下宿へ「ドイツ民主社会党のテーマで演習に参加されたし」という先生からの電報が到着した。私はお礼を言うために大学に駆けつけたところ、河合教授に路上でばったりと会ってしまった。個人的にお目にかかったのはこの時が初めてである。先生が意外に小柄であられること、お顔が老松の木の肌のように精悍であること、の二点に驚いた。

 いよいよ演習が始まると、まず参加者十余人の研究テーマが決まる。発表は九月以降ということで、七月までは、いろいろな問題について討論する。四月末から七月初めまで、私は経済学部の研究室へ毎日通い、第一次――当時はそうは言わなかったが――大戦勃発に際しての、ドイツ社会民主党の混乱と挫折とを勉強した。幸い東京帝大経済学部の研究室には、第一次大戦関係の史料や著作が充実していた。第一次史料によって、第二インターナショナルの崩壊を研究することは、実に楽しかった。夏休みは、前半をマルクスの『資本論』第二巻を読むことにあて、八月半ばから九月半ばにかけて、演習の発表を準備した。

 ドイツ社会民主党が、一九一四年(大正三年)の七月末に戦争勃発の危機に直面した時、「帝国主義戦争絶対反対」「労働者階級の国際的団結」という従来の公約を破って、忠良なドイツ国民として政府の戦争政策に賛成し、戦費支出の予算案に賛成したのは、レーニンなど共産主義者の説くような「労働貴族化した党幹部の裏切り」によるものではなく、ドイツ国民の愛国的な世論に引きずられた結果である、というのが私の結論であった。私の発表が終わると、河合教授は内容を褒めてくださったばかりでなく、「猪木君がドイツ語だけでなく、日本語も立派にできることがわかった」という奇妙な評価をつけ加えられた。

 この勉強を通じて、私は発表したこと以外に、もう一つ重要な問題を学んでいた。それはドイツのぐらぐらとした国内体制に比べて、英国とフランスの民主主義的な戦争指導が断然優越していたことである。ロイド・ジョージ(*英首相)も、クレマンソー(*仏首相)も民主主義左派の出身であったればこそ、恵まれない勤労大衆を戦争遂行のために動員できた。ドイツの保守的な支配層は、ドイツ社会民主党と平時から協力することができず、国家総動員態勢はうわべだけに終わった。

・・・(**前掲書323~325頁)

 このように1930年代を旧制三高(*戦後、新制京都大学教養部を経て現在の同大学総合人間学部)と東京帝大(*現・東京大学)という当時の日本の最高学府で、学生生活を過ごされた猪木正道博士の足跡を拝見してきました。勿論、猪木先生とは異なり、本シリーズで見てきた通り、東大「新人会」や京大他の「学連」で共産主義者・マルクス主義者となって、その後共産党員としての実践活動や、学術界・言論界などでの共産主義研究・敷衍に尽力した人々も、多数存在するわけです。尾崎秀實もそのうちの一人です。二十世紀は、この共産主義の多大なる影響を全世界が受けた時代だとも言えましょう。その世界観は、十九世紀に花開いた決定論哲学に基づく近代科学技術信仰が裏打ちしていたと捉えることができます。つまり、ニュートン物理学の力学計算をすれば、砲弾をある炸薬量と方角と仰角で大砲から発射すれば、遠隔の攻撃目標に命中させることができる、という答えが出てくる世界です。それはアポロ11号が見事に月に人間を運び、また無事に地球に帰還させる偉業を支える科学でもありました。

 つまりはこの宇宙は有限な科学的法則の束で成り立っており、人類が科学的知識をさらに増進して全ての法則の束を解明すれば、宇宙の森羅万象を解明できるし、またその法則の束によって、これから生じる結果を決定することができる、というある種の信条・信仰・パラダイムが、全世界を魅了し支配しようとしていた時代です。そのような時代の気分の中で、マルクスの史的唯物論に基づく発展段階説による「必然的歴史法則」の提唱は、それが「十九世紀的科学観」に親和するものと映ったがために、多くの社会科学系のインテリをその信奉者として取り込むに至ったのです。

 しかし、現代の物理学が、量子力学の発展によって、そうした決定論的に一義的な結果を決定することができないか、乃至は決定すると表現することが相応しくない、と考えられるようになってからは、ニュートン物理学は現代量子物理学のある条件の範囲内では見事に成立し、活用され続けるとしても、より広く深く詳しく捉える最新の物理学理論が提示し示唆する世界像は、多世界解釈をゆるすようになってきているのです。(和田純夫著「量子力学の多世界解釈」2022年講談社BLUE BACKS刊ご参照。)このことを歴史学理論に応用すれば、そもそも「歴史の必然的法則」なるものは同時に多数存在する「原因と結果」のうちの、「一つの例」に過ぎないと解釈することができるのです。

   まあ、それ以前に、1989年のベルリンの壁崩壊に始まる旧ソ連から東欧共産圏の崩壊、中国共産党の市場経済導入など、「歴史の必然法則」に反する非必然的結果が、そもそも反証しているわけですが…。しかし当時はそのようなことは勿論わからず、多くのインテリ・学生たちは、この科学的歴史法則の虜となってしまったわけです。ただ、少数ながら猪木先生やその恩師の河合栄治郎先生、また慶應義塾の小泉信三塾長のように、同時代人にも、この「詐術」を見抜いていた数少ない賢識を持った人々も存在していました。1976年の慶應義塾大学法学部政治学科必修政治学を担当されていた堀江湛教授は、開講一番、ある政治の諺を取り上げられました。「道の右端を歩く者は左側からしか殴られない。左端を歩く者も右側からしか殴られない。しかし道の真ん中を歩む者は両側から殴られる」と。この言葉が意味する通り、戦前日本では、河合栄治郎先生のような「自由民主主義者」も、帝國陸軍など右翼勢力からすると、左側と見られ、「マルクス主義者・共産主義者」と同様に、弾圧を受けたのです。その模様を、前掲書**から読んで見ましょう。

・・・1936(*昭和11)年2月26日、陸軍第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊の兵1470余名を率いて、皇道派青年将校は、岡田啓介首相(*海軍OB)、高橋是清蔵相(*日銀OB)、斎藤実内大臣(*海軍OB)、渡辺錠太郎教育総監(*陸軍現役)、鈴木貫太郎侍従長(*海軍OB)らを襲撃した。幸い岡田首相と鈴木侍従長は奇跡的に助かったが、このクーデターは、軍国日本の暴走を決定的にした。

 たしかに犯人の皇道派青年将校たちは銃殺され、陸軍の要職から皇道派は一掃されたが、皇道派と対立していた統制派が、このクーデターがもたらした恐怖心を利用して、悪行を働いた。すなわち中国(*蔣介石国民政府)への軍事的圧力を強化し、ヒトラー・ドイツとの防共協定を結ぶなど1945(昭和20)年のポツダム宣言受諾まで続いた自爆戦争への道は、この段階でほぼ決定されたと言っても過言ではない。

 二・二六事件が起こった時、私(*猪木先生)はほとんど絶望的になっていた。ところが帝都(*東京)の心臓部を占拠していた反乱軍が降伏した直後に発行された『帝国大学新聞』に、河合栄治郎教授は二・二六事件を真っ向から批判する一文を発表された。

 その頃まで、東京帝大では一部の河合党を除いて、多くの学生は河合教授を反動教授、ご用学者と悪罵していた。マルクス主義者でなくても、マルクス主義に好意的な発言をする教授は、進歩的と評価された。

 事件直後の3月9日付の『帝国大学新聞』を、私は今日まで62年間大切に保管してきた。河合教授の「二・二六事件の批判」の全文をここに引用したいのだが、あまりに大きい紙幅を要するので、ごく一部の、もっとも重要と思われる部分を引用するにとどめたい(当時(*内務省特高警察による)検閲が厳しかったから伏せ字が多い。手を加えないでそのままにした。仮名遣いだけは改めた)。(*尚、伏せ字部分は原著では「……力(註 軍事力)」となっていますが、本稿では「軍事力」という表記とします。以下、河合栄治郎教授の批判文:)

   「ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが軍事力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等(*蹶起将校)のみが決して独占的の所有者ではない。……中略……

 彼等の吾々と異なる所は、唯彼等が軍事力を所有し、吾々が之を所有せざることのみに在る。だが偶然にも軍事力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるか。吾々に代って社会の安全を保持する為に、一部少数のものは、武器を持つことを許され、その故に吾々は法規によって武器を所持することを禁止されている。然るに吾々が晏如として眠れる間に、武器を持つことそのことの故のみで、吾々多数の意志は無の如くに踏付けられるならば、先ず公平なる軍事力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるに如くはない。……中略……

 此の時に当り、往々にして知識階級の囁くを聞く。此の軍事力の前に、いかに吾々の無力なることよと。だがこの無力感の中には、暗に暴力賛美の危険なる心理が潜んでいる。そしてこれこそファッシズムを醸成する温床である。暴力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用によりて瓦解する。眞理は一度地に塗れようとも、神の永遠の時は眞理のものである。この信念こそ吾々が確守すべき武器であり、之あるによって始めて吾々は暴力の前に屹然として亭立しうるのである。」

 この河合教授の文字どおり生命がけの一文を読んだ時の興奮と感激とは、その後60余年間、私を支えてきたと言っても過言ではない。この日本型ファシズムに対する教授の宣戦布告は、右傾化した日本陸軍の首脳や中堅のもっとも痛いところ衝いたからこそ、三年後に先生は東京帝大を追われ、出版法違反事件の被告となり、悪戦苦闘の末、五年後に心臓発作で亡くなる。

 二・二六事件に対する河合教授の体当たり的な批判以来、私は先生に対する敬愛の念をますます深くした。当時日本の知識人の中に、誰一人としてあの(*二・二六)事件を正面から弾劾した人はいなかった。当時の東京帝大経済学部教授会は、河合教授を中心とする自由主義派と、土方成美教授が率いる右派と、大内兵衛教授を取り巻く左派とに三分されていた。そして残念なことには、学生たちまで、所属する演習の指導教授の派閥に属していると見られる傾向があった。私など河合派とみなされ、とくに左派の学生たちから敵視されているように感じた。彼らがあの『帝国大学新聞』の一文を読んで、「河合さんを見直した」と言うのを聞いて、私は喜ぶと同時に彼らの不明を嘆いた。

・・・(**同書325~328頁)

 これが戦前日本の最高学府であった東京帝國大学で生じていた情況であったのです。こうして大学内に巣食っていた左翼の教授陣は敗戦によって、勢力を盛り返し、マルクス経済学はもとより、史的唯物論を基軸とした戦後史学会も、また思想界・言論界も、左翼の風が吹きまくる情況となったわけです。そうすると、戦前は共に弾圧を受けていた自由民主主義派の教授陣は、今度は右翼的・反動的だとして批判・攻撃を受ける側に立たされたのです。もとより、常に真ん中とか中道が正しいというわけでは決してありませんが、少なくとも極端に偏した思想というものには、何らかの欠陥が備わっている蓋然性が高いのでは…という知的な疑いを、良識に従って、わたくしたちは常に失わないようにしたいものです。