今回は本シリーズ(27)でご紹介した「参謀本部作戦部内の陸軍開戦トリオ」のうちの一人、田中新一陸軍中将(作戦部長就任時は陸軍少将、陸士25期、陸大35期)を取り上げたいと思います。尚、本シリーズで再々取り上げた田中隆吉陸軍少将(陸士26期、陸大34期、開戦時陸軍省兵務局長兼陸軍中野学校長)とは、同じ明治26(1893)年生まれ(但し学年は一年違い)の「田中将軍」でも、全くの別人物ですからご注意ください。(以下*印は裕鴻註記他)

   田中新一将軍は、戦後昭和30(1955)年2月に元々社から「大戦突入の真相」という自著を刊行しました。しかしすぐに同出版社が倒産したので長らく絶版となっていましたが、昭和53(1978)年2月に芙蓉書房から田中新一著、松下芳男法学博士(陸士25期、元陸軍中尉)編・補節にて「田中作戦部長の証言」と改題して再版されました。更に同書は昭和61(1986)年2月に「作戦部長、東條ヲ罵倒ス―勝算なき戦争の舞台裏」と改題されて芙蓉書房より再々版されています。

   本稿では昭和53年版「田中作戦部長の証言」(以下「*田中新一証言」と略記)を使用します。同書では陸士同期生で友人でもあった松下博士が集録した、原著「大戦突入の真相」以外の田中新一将軍の遺稿や証言記録(防衛研究所所蔵)も補章・補節の中に加えられているのです。

   この「陸軍開戦トリオ」と、当時実際に帝国陸軍の作戦中枢で勤務していた陸大47期首席卒業の俊英、高山信武(たかやましのぶ)元陸軍大佐(陸士39期、戦後陸将)が同書に寄せた序文から、先ずは抜粋して読んでいきましょう。

・・・時代は人を造り、人は時代を制する。昭和の前期は未曾有の混乱期であり、いく多の傑物を産んだ。田中新一元陸軍中将など、まさにその最たるものといえよう。私は大東亜戦争発足のやや前、参謀本部第一部(*作戦部)作戦課に配置され、当時の部長田中新一中将の指導を受けた。

   その頃わが国はABCD (*米英中蘭)陣営の完全包囲を受け、石油はじめ重要資源導入の道を閉ざされて、開戦か屈従か二者択一の瀬戸際に立たされていた。米英相手の開戦決意は、もとより容易ならざるものであり、大本営の中枢である作戦部内においても、開戦に否定的な意見が少なくなかった。否、多数の幕僚が開戦に反対であったといえよう。

   この中にあって田中部長をはじめとし、服部卓四郎作戦課長、辻政信戦力班長の三氏が、開戦の強力な主唱者であり、なかんずく田中部長は、東條(*英機)陸軍大臣、杉山(*元)参謀総長はじめ、海軍、政界等に対する説得の原動力であり、推進力であったように思う。

 しからば多数の部下幕僚や、上記責任の地位にある人達が、何故に田中(*新一)氏の説に同調するに至ったのであろうか。

   思うに当時の時点としては、外交的施策への期待が極めて薄く、武力による国策発動の外に道がなかったことと、当初開戦に強く反対していた海軍が、真珠湾奇襲作戦の成功を確信するに及んで、極めて積極的に開戦論に傾いてきた事等があげられるが、その背後には田中部長の識見と指導力、ならびに抜群な説得力が、大きく作用していたであろうことを忘れてはならない。

   東條(*陸軍)大臣なども参謀本部内作戦室に来り、作戦課参謀の実施する南方作戦研究の場において、極めて慎重な態度を持していたが、田中部長自ら之に対し、終始熱心積極的な説明を加えていた。

 田中氏は剛毅果断、実行力抜群であり、われわれ部下にとっては、まことに恐ろしい存在であった。氏の比類なき迫力に圧倒され、時として一喝されたことさえある。氏はただに部下に対してのみならず、時として上司、あるいは先輩に対してさえ、断乎たる態度を持し、しばしば激論を戦わせた模様である。蓋し氏には不動の信念と、目的完遂のためには、自己一身の利害などを超越したファイトがあったからである。このファイトこそ、異色の人辻政信や、英才服部卓四郎を彼に傾倒せしめ、東條総理をして、開戦に決断せしめた原動力であるといっても過言であるまい。

   田中氏は開戦時の作戦部長として、おそらく寸暇なき多忙の身であったであろう。しかも氏は開戦の経緯等を克明に記録している。(*中略) 

   当時の陸軍は重大な危局に直面して、田中氏の作戦部長起用を必要とした。即ち時代が田中氏を必要としたのであり、反面田中氏が、当時の異常な時代を動かしたともいえるであろう。日本のために不幸であったという人もあるかもしれない。(*中略)

   結果的に考えればまことに無謀であり、無益の戦争であったが、満洲事変以来逐年拡大された当時の戦争状態を回顧するとき、昭和十六年頃の時点においては、すでに采(*ママ)は投げられていたとも考えられ、大戦の誘因は、その以前に存在したとみられるのである。それぞれの段階と時点においては、それなりの理由があって、逐次拡大の一途を辿ったことと思われるが、須(*すべから)く時の指導者は、遠く未来を洞察し、時宜に適した施策を講ずべきではなかろうか。

   ともあれ今次戦争は、宿命というにはあまりにも厳しく、軍部あるいは一部指導者の独走などときめつけるには、日本人として堪えられない惨事であった。本書(「*田中新一証言」)によって、田中氏およびその周辺指導者の功罪を云々することより、今次大戦勃発の真因を探求し、後世のため再び過誤をくりかえすことなきよう、国防機構の確立と、政治と軍事との適正な運用に資することこそ、本書の眼目とする処ではなかろうか。

   そして今更のように考えさせられることは、哲人ニーチェの曰う『偉大とは適時適切に方向を指示するをいう』との教訓であって、政戦両略の運用に任ずる指導者は、合理的な組織基盤の上に立ち、先見洞察の明と、正しい情勢の認識把握のもとに、日本人のもつ体質をたえず反省しながら、国策の方向を決定しなければならない。 

昭和五十二年六月 高山信武(元陸軍大佐)

・・・(上記「*田中新一証言」6~8頁)

 さてここからは、田中新一将軍自身はどの様に述べているかを「*田中新一証言」より適宜抽出抜粋しながら見てゆきたいと思います。まず同書の「緒言」としてはこう纏められています。

・・・第二次近衛内閣から、日米開戦に至るまで、約一年五ヶ月の間、日米は如何なる問題について争ったかといえば、主なるものはつぎの通りであった。

   (一)日本の大東亜政策と、アメリカの極東政策の基本たる門戸開放・機会均等主義とが抗争した。また、日本の大東亜政策の一面たる日本の南進政策が、アメリカの世界現状維持政策と相争った。この抗争には、九カ国条約、ハルの四原則、通商無差別の原則、支那における駐兵・撤兵が、主要なる問題として登場した。

   (二)日独伊の全体主義的革新陣営が、米英の民主主義的現状維持陣営と、世界的抗争を演じた。現実には自衛権問題で争った。この抗争の主役は、日独伊三国同盟であった。

   (三)日米海軍軍備競争の問題は、日米交渉の表面に現われなかったが、日米抗争の根底をなしたものは、この問題であった。日本の戦争決意の最大要因は、海軍力の対米比較であった。

・・・(「*田中新一証言」31頁)

 この様に田中新一将軍は先ず概観し、そして主に中華民国との関係を、日華事変(当時の呼称は日支事変または支那事変)を主としながら、次の様に説き起こしています。

・・・昭和十三(*1938)年十一月、日本軍は武漢攻略、広東占領を一段階として、その進攻作戦を終った。この年十二月二日、日本大本営(*主に陸軍の参謀本部)は、爾後の作戦指導に関し、「占拠地を確保して、堅実なる長期攻囲の態勢を取る」べきことを命令した。

 事件(*日華事変の端緒となった盧溝橋事件)発生以来一年有半の進攻作戦は、ここに終りを告げ、事変は今や長期戦という第二段階に入ったのであった。日本は進攻作戦で、徐州においても、武漢においても、敵軍(*蔣介石軍)の主力を捕捉することができず、これを逸したことは、長期戦争化の一つの要因をなした。真に遺憾であった。

 こうした戦局の転換に関連して、近衛(*文麿)総理は十一月三日、東亜新秩序に関する声明を出した。新秩序の主とするところは、東亜永遠の安定を確保するに在り、政治・経済・文化の互助連鐶、東亜国際正義の確立、共同防共、経済結合などをもって、その内容とした。もちろん東亜新秩序は、東亜広域圏の原則を確立し、圏内各国の民族、社会、政治、経済、国防等は、この原則に基づいて、合理的に律せられる。このような新秩序の中で始めて、激化し来った日支民族抗争の根源を除きうるものと、想定された。かくして日支事変解決の端緒を掴まんと期待した。日本伝統の大陸政策は、かくして東亜新秩序政策にその地位を譲った。

 一面から見れば、東亜新秩序に対しては、自由主義陣営(*米英など)は一斉に反対した。ことにアメリカは、昭和十三(*1938)年の暮、新秩序否認の強硬なる通牒を発したが、それは明らかに門戸開放主義を基礎としたもので、自国の基本的な極東政策を押出したものであった。(*中略) これ(*東亜新秩序政策)は明らかに九カ国条約を破棄することを意味し、それは門戸開放・機会均等主義を拘束することとならざるを得ない。アメリカ政府は更にこれに対して、「所謂新秩序を、専断的に創造することは承認し難い」と再抗議した。これは最後の交渉決裂まで、米政府の一貫した態度であった。

・・・(「*田中新一証言」40~42頁)

 つまり帝国陸軍の大陸作戦は、いくら進攻作戦で局地的勝利を重ねても、さらに奥地に後退しつつ戦い続ける蔣介石軍主力を結局は捕捉撃滅できず、ついに長期持久戦状態に入ったのです。言い換えれば日華事変を軍事的に解決する目処を失い、長期泥沼化したことを意味します。

   そこで軍事戦略的対処から政略的対処に切り替え、「東亜新秩序」の形成による蔣介石政権の政治的弱体化を図ろうとしたとも解釈できるのです。そもそも上記の「東亜新秩序」とは、具体的には一体どのような政策ビジョンなのでしょうか。

   中でも「東亜永遠の安定を確保する」ための、「政治・経済・文化の互助連鐶、東亜国際正義の確立、共同防共、経済結合」とは、どのような具体的内容を意味しているのかという点が肝心です。

   観念論的用語を駆使し、いかにも大義や正義に基づいている印象を与えますが、その後に続く「東亜広域圏の原則」とは何を意味するのでしょうか。美辞麗句的な建前論は別として、実質論として結局は、東亜(東アジア)について、日本の「政治・経済・文化」を基軸とした「東亜新秩序」理念に基づく「東亜広域圏の原則」により、「圏内各国の民族、社会、政治、経済、国防等」を「合理的に律」するのは「もちろん」日本であるということを意味しているのではないでしょうか。この思想は次の「大東亜共栄圏」に結実してゆきます。ここでまた「*田中新一証言」に戻って次の記述を読んで見ましょう。

・・・日支事変は、第三期二ヵ年(自昭和十三(*1938)年十二月至昭和十五(*1940)年十一月)を経過したけれども、ついに解決に到着することができなかった。第二次近衛内閣は、新たなる支那事変処理の方針を打出すため、十五(1940)年十一月十三日御前会議を経て、「支那事変処理要綱」(補節)を決定した。その要旨とするところは、内に在っては、国内戦時体制を強化して、国防力を拡充し、外に在っては、(*日独伊)三国同盟を活用するはもちろん、日ソ国交を調整する等、内外一切の政戦略を綜合して、大長期戦争を戦い抜かんとするに在った。

   もっとつき詰めて見れば、支那事変そのもののみを取り上げて、解決すべき望みはほとんど絶えた。支那事変の解決は、ただ欧亜を綜合した国際大変局の一環としてのみ、これを期待することが出来る、というのであった。早期解決の望みはない、長期抗戦の結果に待たねばならなくなった。日本が、事変当初以来堅持してきた東亜局地的の事変解決の見込みはなくなって、国際的大紛争の解決に依存せねばならなくなった。日支直接解決も絶望となった。第三国の介入に待たねばならなくなった。

 杉山(*元)参謀総長は、嘆じて語っていた。「近衛(*文麿首相)も松岡(*洋右外相)も、支那事変には飽きてしまっている、現在の方策には絶望している。彼等はいうている、支那事変は今のままでは、解決なんて望みはない、南方に足をおろすこと、事変を解決する道はそれだけだ。支那に向けてある力を南方に移すべきだ」と。これは大東亜共栄圏絶対観である。

 日本は昭和十五(*1940)年秋には、長期大持久戦争に、唯一の出路を求めねばならないまでに追いつめられていたのだ。日支事変第四期はかくして始まった。この窮境において、大東亜共栄圏政策が、南進政策を伴って、急に具体化してきたのは、誠に自然の成り行きであった。日満支の経済ブロックである東亜新秩序内には、石油、良質の鉄鉱、銅、鉛、亜鉛、モリブデン、燐鉱石やゴム、綿花、羊毛等の原料を欠いていた。これらの資源は、東南アジアに豊富だった。

   米英の経済封鎖が強化するに伴なって、東亜新秩序は、必然的に東南アジアに拡延せらるべき必然の運命を持っていた。大東亜共栄圏政策は、東亜新秩序政策と、南進政策を統合したものと見ることが出来る。東亜新秩序政策が、すでにアメリカの極東政策たる門戸開放政策と、正面的に衝突しているのに、更に南進政策が加わった。この南進政策が、日米間の重大なる癌となったことはいうまでもなかった。

・・・(「*田中新一証言」43~44頁)

 この様に田中新一将軍は述べているのです。それでは、国際緊張を増すアメリカをどの様に捉えていたか、同書の別の部分を読んでいきましょう。

・・・またかれ(*コーデル・ハル米国務長官)は、ヒットラー主義が、米国の国境まで侵入する危険ありとし、これを防ぐには防御手段では駄目で、機先を制してたたく必要がある、とも強調した。

   「ヒットラー主義は世界征服を企図している、英国屈すれば、大西洋は彼(*ヒットラー)に制せられる惧れがある。南米は彼の資源地となって、米州が危険になる。彼がその国境を侵すまで、安閑として滅ぼされた国が、ヨーロッパに十五ヵ国ある。米国はその覆轍(*ふくてつ)を望まないのである。」ともいった。(六月七日「米国に使して」(*野村吉三郎駐米大使著)より)

   この言葉には、予防戦争の響がある。ヒットラーの欧州新秩序は、結局モンロー主義(*南北米州大陸と欧州大陸の相互不干渉政策)を破壊し、アメリカの存立自体を危険にすると見た。これを予防するための欧州参戦は、当然中の当然事に属すると、アメリカの指導者は考えた。

・・・(「*田中新一証言」32~33頁)

 つまりアメリカにとっては広大な大西洋といえども、海を挟んで欧州と対峙する地政学的位置にあることから、もし英国までもがヒットラーの支配下となれば、海の対岸たるヒットラーのナチスドイツと直接対峙することになり、尚且つ親独的独裁国であるアルゼンチンなどの南米諸国がヒットラーと連携することとなれば、アメリカのお膝元の米州圏(南北アメリカ大陸)までが脅かされることになるという分析です。それを防ぐためには「予防戦争」としての欧州参戦もやむなしと米国は考えていたと見ているのです。

 そしてこの地政学的構造は、西側のさらに広大なる太平洋にも当然適用しうるのです。太平洋であってもアメリカから見れば、この大海の対岸には極東アジアが直接対峙しているのであり、太平洋を東西に分けて東太平洋に留まる理屈にはならないのです。併合したハワイ諸島はもとより、1898(明治31)年の米西戦争の結果得たフィリピンやグアムもまた実質的なアメリカの支配領域であったわけですから、まさにこれらの地域は西太平洋に所在する米国の拠点であり、そのすぐ先に大日本帝国や中国大陸は所在していたわけです。

   この米国の極東政策を田中新一将軍はどう捉えていたのでしょうか。以下前掲書を引き続き見てゆきます。

・・・アメリカの極東政策の根幹は、疑いもなく門戸開放政策である。(*中略) この門戸開放政策の究極の狙いは、勿論支那の全面的独占支配に在った。アメリカ海軍は、このアメリカの国策と、通商を維持するために存している。(*中略) ドイツの侵略勢力と、アジア日本の侵略勢力とは、(*日独伊)三国枢軸同盟によって一体化した。すなわち一つの強大なる反民主主義世界勢力が起って、米国伝統のモンロー主義と、門戸開放主義を、粉々に打ち砕かんとしていると見た。ニューヨーク・タイムスはこう論じた。

   「(*日独伊)三国条約は、米国をして大西洋及び太平洋に直面せしめ、延いては米の対英援助の中止を強要する性質のものである。

   しかしこの三国の企図は失敗するであろう。米国は一切の自国の利益を擁護する為、英国の勝利が絶対に必要である。日本の対英脅威を軽減するには、日本をして支那に深入りせしむることである、英国と重慶(*蔣介石政権)を援助することが、米国防衛の基礎である」

   アメリカ自体の防衛と、国策の維持は、全体主義陣営の日独を撃破することにかかっている。それには英国をしてドイツを、また支那(*中華民国蔣介石政権)をして日本を打倒させるか、少なくとも米国参戦までの前衛拠点たらしめる外に道はない。

   かくして一九四一年(昭和十六年)三月の武器貸与法は、米国防衛上絶対的必要と考えられる国への援助を規定した。そしてまず英国と、支那と、ギリシアが選ばれた。ここで英国と支那とは、明らかに米国防衛の第一線と化したのだ。米国の国防は、欧州における英国の健在を条件としている。極東では支那(*蔣介石政権)の健闘に米国防衛の拠点をおいた。

   そして次に来るものは必ずや参戦である。まず主戦場正面たる大西洋、すなわち欧州への武力参戦のコースを取ることは、正に必然的であった。アメリカは、(*日独伊)三国条約をもって欧州、東亜における侵略膨張主義の制覇のからくりと考えた。それのみならず、進んで西半球にまで押し寄せてくる世界征服機構と断じた。世界の新秩序運動は、徹底的に撲滅しなければならなぬと、アメリカ政府は決意した。そして対欧参戦も已むを得ないとする決意は、(*日独伊)三国条約の出現によって、更に強化された。

・・・(「*田中新一証言」33~35頁)


 戦後の著作とはいえ、田中新一陸軍中将の観点と分析はさすがに鋭いものがあります。陸軍作戦部長としての開戦当時から連なるこうした見方は、本シリーズの核心にも触れるものと思われます。(今回はここまで)