吉田裕子(塾講師)の国語エッセー | 古典(古文・漢文)・近現代文学・歌舞伎・狂言

”国語を学ぶことで、感受性と対話力を磨いたら、人生はもっと楽しい。”という思いのもと、ブログや書籍で情報を発信する他、定期的に「大人向け古典講座」を開催しています。予備校・高校・カルチャースクールの講師、ライター。


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今週中盤から、インフルエンザでダウンしておりましてあせる

新しい文章を書く気力・体力に欠けているので、
またもや、過去のレポートを掘り起こして、
載せてみようと思いますにひひ


今回は「20世紀のフランス文学」のレポートです。

(ラクだという評判だけで履修した科目です(笑))


フランスの現代詩を鑑賞するという課題だったのですが、
フランスにも詩にも造詣の深くない私は、
どうしたものか…と頭を抱えまして汗

結局、東大でお世話になった今橋映子先生の本に紹介されていた、
ジャック・プレヴェールを取り上げることにしました。


レポートと言うよりは、
エッセーのようなゆるい文章で恐縮ですが、
とても有名な詩を取り上げていますので、
興味のある方はどうぞ合格



ジャック・プレヴェール「Le Jardin」


 取り上げるのは、シャンソン「枯葉」(ジョゼフ・コズマ作曲)の作詞で広く知られているジャック・プレヴェール(1900-1977年)の詩、「Le Jardin」である。

 窪田般彌氏による「庭園」の訳*1、平田文也氏による「楽園」の訳*2もあるが、今回は、小笠原豊樹氏の訳「庭園」で紹介しよう。


  千年万年の年月も
  あの永遠の一瞬を
  語るには
  短すぎる
  きみはぼくにくちづけした
  ぼくはきみにくちづけした
  あの朝 冬の光のなか
  パリのモンスリ公園
  パリは
  地球の上
  地球は一つの惑星。
*3


 この詩は、プレヴェールの処女詩集『パロール』に収められている。彼は、1928年頃には雑誌などに詩を発表し始めていた。しかし、それを周囲の勧めに従って単行本にまとめたのは、1946年のことだった。彼が43歳のときのことである。


「うちで教えてよ!」と言われたい。突き抜けた国語教師を目指す社会人大学生ヨシダユウコの貪欲日記


 モンスリ公園は、シャガールやモディリアーニなど画家志望の若者が集まった地区”モンパルナス”のある14区の南のはずれに位置する公園だ。千本以上の木々の緑と人造湖を有するイギリス式庭園である。朝の落ち着いた庭園の中での男女のくちづけは、ロマンティックな詩情に満ちたモチーフだと言えよう。


 恋人(あるいは元・恋人かもしれない)とのキスを、主人公たる男性が回想する四行に始まり、くちづけする二人の表情のアップ、その顔に降り注ぐ朝日、ひんやりと澄み切った冬の朝の空気、モンスリ公園の木々、パリの街、そして、地球へ――徐々に、そして、一気に、カメラが遠くへ引いていく。そんな視点の移動が印象的な詩である。

 これは、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』(1945年)の脚本を書くなど、映画脚本家としても活躍したプレヴェールらしい感受性である。


 そして、この映画的な視点移動の効果によって、この詩は、特殊性と普遍性を併せ持って、幾重にも重なり合う鑑賞体験を読者にもたらしているように思う。

 この詩は、8行目までを読むと、季節も時刻も場所も特定された具体的状況下でのある恋人達の情景である。まさに映画のワンシーンのような、「絵になる」かけがえのないくちづけの瞬間、その唯一性のロマンティシズムが読者の胸を打つ。ところが、その後、9行目から11行目を読むと、その叙情が一気に普遍化される。パリのモンパルナス公園で冬の朝にくちづけていた恋人達のときめきは、広い地球の中で日々、無数の恋人達によって繰り返されるたくさんの口づけに通じる普遍性を獲得するのである。そして、読者は、いつか、どこかで経験した、自身のかけがえないくちづけの体験を想い出すのではないだろうか。


 さて、プレヴェールは、1926年にアントレ・ブルトンやルイ・アラゴンらと出会い、シュールレアリスム運動に加わっている。最終的には、彼は、無意識への過剰な執着や、詩の実験のためでしかない詩などに対する違和感がぬぐえず、ブルトンとの映画芸術に関しての意見対立をきっかけに、シュールレアリスム運動とは袂を分かつ。

 とは言え、『パロール』所収の「行列」に見られる言語遊戯や「海軍大将」に見られるブラック・ユーモアなどは、彼らからヒントを得たところも多いと思われる。そうしたシュールレアリスム的な感性の延長線上に生まれた手法が、詩の印刷された見た目への工夫であろう。

 この詩も、原文は中央で揃えられており、それは視覚的に見ても、図形として美しい。


Des milliers et des milliers d'annees
Ne sauraient suffire
Pour dire
La petite seconde d'eternite
Ou tu m'as embrasse
Ou je t'ai embrassee
Un matin dans la lumiere de l'hiver
Au parc Montsouris a Paris
A Paris,
Sur la terre
La terre qui est un astre.
*4



 プレヴェールは、ことばの響きのみならず、その見た目までも美しく工夫を凝らしたこの「庭園」の詩において、恋人とのくちづけという、一つ一つはかけがえがなく、しかし、同時にどこまでも普遍的な瞬間のロマンを託す場所として、パリを選んだ。

 その後、写真家イジスと、日常的でありながら視覚的に美しいパリの光景を切り取った『春の大舞踏会』を共作するプレヴェールにとって、パリは、すべての読者に訴求するトポスとして、格別な魅力を持つのと同時に、他の地と変わらぬ普遍的な日々の生活が確かに営まれている都市でもあった。「庭園」の詩は、パリとの特殊性と普遍性の交差した絶妙なところに存立した詩であると言えよう。




*1 『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』(窪田般彌、白水社、1975年、180ページ)
*2 『プレヴェール詩集』(ジャック・プレヴェール、平田文也訳、ほるぷ出版、1982年、114ページ)
*3 『プレヴェール詩集』(ジャック・プレヴェール、小笠原豊樹訳、マガジンハウス、1991年、76ページ)
*4 『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』(窪田般彌、白水社、1975年、179ページ)



参考文献

今橋映子『<パリ写真>の世紀』(白水社、2003年)
山田兼士『百年のフランス詩――ボードレールからシュルレアリスムまで』(澪標、2009年)



※このレポートは、本当は、
 「2つの作品を取り上げよ」という指示になっていて、
 文字数は2つ合わせて4000字でした。

 もう1つは、ルイ・アラゴンの「パリ」を取り上げましたが、難しいので割愛!

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前回のブログに引き続き、倫理のレポートを紹介します~

お題は、「カントの倫理思想について2000字で説明せよ」でした。


2.カントの倫理思想

2-1.定言命法と仮言命法

 カントの倫理思想は、命令形の定言命法で知られる。命令形をとる背景には、道徳には一種の「義務」を不可欠とするカントの考えがある。カントは、自らの善行を他者に感謝されたときの快感に基づく善意を批判する。それが逆境にあってもなお等しく実行されるような、普遍的な善意志を要求するのである。感性のまま欲求に従っていたら実行されないであろう善を実行するには、義務と言うスタンスが不可欠なのである。

 命令、すなわち「~すべし」という形には、2種類の形がある。「もし○○なら、~せよ」という形(仮言命法)と、条件の付かない「~せよ」という形(定言命法)である。カントは以下の2点で定言命法のみを評価し、仮言命法はむしろ害悪であるとしている。

1.仮言命法は、条件と命令からなるが、条件の方に意味がなくなれば命令の方も効力を失う。「人に好かれたいなら、人に優しくすべし」という仮言命法は、「人に好かれることに興味がないから自分は人に優しくする必要はない」と考える人に対して力を持たない。つまり、条件に興味がない人にとっては影響を及ぼさないようなものは普遍妥当性がないのであり、法則たりえない。

2.仮言命法では、命令それ自体ではなく、条件の部分が目的であり動機である。命令部分ではなく、条件部分に力点が置かれているため、この命法は、条件を叶えるために手段行動を選ばない人を生み出しかねない。また、「もし○○なら」はより突き詰めて言うなら、「もし○○を得たいなら」である。その○○には、お金や名誉、その他の幸福が入るが、こうした経験的な意欲に振り回されてしまう他律的なあり方は、意志の自由がないため、道徳的だと言い難い。

 上記2点のように、仮言命法は道徳法則として不十分なのであり、定言命法か仮言命法かを区別することは、真の道徳と仮象道徳の見分けに役立つのである。仮言命法の構文をとっていなくても、よく分析してみると仮言命法であったという例も枚挙に暇がない。「早起きは三文の徳」は「徳をしたいなら、早く起きるべし」なのである。


2-2.定言命法の定式

 カントは、各個人の行為の背景にある主観的原理を「格律」と名付けた。そして、道徳法則は、普遍妥当的な純然たるものであって、各人の格律を導くものであるべきだと考えた。多様な個人の多様な行為の全てに妥当しうる法則は、実質的内容を含まない、形式的法則とならざるを得ない。

・汝の意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ。(根本方式)

・汝の行為の格律が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ。(第一方式、自然法則の方式)

・汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ。(第二方式、目的の方式)

・意志が……自己自身を同時に普遍的に立法的だと見なしうるような、そのような格律にのみしたがって行為せよ。(第三方式、自律の方式) (石川(1995)、163~167頁)

 根本方式と第一方式においては、普遍化しても矛盾をきたさないような格律に従って行為せよ、という考えが明示されている。第二方式では、自分およびすべての他者の人間性を平等に尊重すべき旨が語られる。物が徹底的に手段であることと対照的である。第三方式には、法を自ら立てる主体的行為のうちに積極的自由を見出すカントの考えが反映している。他律ではなく自律にこそ、道徳法則は支えられるものなのである。


2-3.最高善

 「幸福になれるなら、何かをする」という仮言命法が道徳法則にはならないことは既に述べた。目的として幸福を掲げるのではなく、道徳性の研鑽によって結果として幸福に値する人間になることが期待されるのである。

 ただし、あくまで目的は徳であることを念押しした上で、徳と幸福の一致に触れた概念がある。「最高善」だ。

 カントが言うには、最高善の要素の1つ目は、人々の徳と道徳法則が完全に一致していることである。問題なのは、これをあくまで自由の上に成立させねばならないということである。その実現は困難を極めるであろうから、最高善は、完全性に向かってたゆまぬ前進を無限に続けていくことの彼方にあるものだと考えられる。そうした最高善が実在するためには、1人の人が永く存在しなければならない。そのために、霊魂の不死が要請されるのである。

 また、最高善の要素の2つ目が、徳に値する幸福が徳と一体となって実現することである。我々の日常的実感は、徳が必ずしも結果としての幸福を意味しないように思えるが、それを約束してくれる存在が必要なのである。それが、世界の創造者であり、徳と幸福の結合を保証する「神」という存在だった。

 カントはこれら要請の結果として、理性的に、道徳と宗教を接続するのであった。


参考文献

石川文康(1995)『カント入門』筑摩書房

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慶應通信のレポート「倫理学が返ってきました!

11月28日受付⇒12月21日返送と、かなり早めの返却。


「非常に読み易くよい文章を書かれていて、
 内容も要点をおさえた的確なものです」

というコメントとともに、評価Aをいただけて、嬉しい限り


このレポートは、
「アリストテレスとカントの倫理思想について
 それぞれ2000字以内で説明しなさい」
というレポート課題だったのですが、
とりあえず、今日のブログでは、
アリストテレスの方を



1.アリストテレスの倫理思想

1-1.最高善

 アリストテレスは、最高善について検討するにあたり、目的論的に前提条件を整理している。まず、目的には、活動そのものと活動の結果の2種類があるということ。そして、より包括的であったり、より高次だったりする目的の方が、その目的に従属的な目的よりも望ましいものだということ。

 それを踏まえると、第一に、最も大所高所に立つ能力が追い求めるのが最高善であるはずである。そして、第二に、最高善はそれ自体として望まれるはずで、他のものはその従属的な手段であるはずである。これらの特徴を踏まえ、アリストテレスは、最高善を幸福(エウダイモニア)とも呼んでいる。

 こうした要件から、アリストテレスは、享楽的生活と政治的生活には最高善がないという。享楽的生活は快楽を善と考える訳だが、快楽追求は家畜や奴隷と水準が変わらないため、第一の要件を満たさない。また、政治的生活は名誉を最高目的とするが、名誉はそれを得る本人よりも、それを与える人に依存するものなのであるし、名誉は卓越性の故に与えられるものなので、それ自体を望まれるはずであるという第二要件に合わない。

 彼が是としたのは、観想的生活である。観照は、自足的なものであるし、活動自体が愛されるからである。ただし、これは、ごく一部の人にのみ許される特権的生活である。


2.人間の魂と知慮にいたるための育成

 アリストテレスは人間の魂を以下のように分けて考える。

・(理を持たない部分)栄養と成長を管理する植物的能力
・(理を持たないが理に従わせる習慣づけもできる部分)欲求的部分
・(理を持つ部分)学問に有用な、無条件に自明な事柄を扱う認識的部分=理論理性
・(理を持つ部分)いくつかの行為からなすべき行為を選択する勘考的部分=実践理性

 この理論理性・実践理性は、素質として人間に与えられているものだが、可能態から状態へ移行させるための努力は後天的に行われねばならない。その手法は、理論理性に対しては教育であり、実践理性に対しては習慣化である。

 実践理性が現実に実践的であるためには、行為を現実に行う力も不可欠であり、そのためには、魂の欲求的部分も巻き込んでいく必要がある。行為は本人が望まなければ現実に実行されることはないが、これは、欲求的部分に基づく欲求だからである。これも含めた習慣化について、アリストテレスは、言葉によって行うことができるのはごく一部であって、大多数の若い人々には、法律を主とした強制手段によって恐怖に裏付けられた習慣化を行う必要を説いている。

 こうした習慣化の結果、勘考(思量)と欲求とが共に卓越性をもって結合された状態は「知慮(フロネーシス)」と呼ばれた。


3.中庸

 実践理性の卓越は、知慮と倫理的性状の両方から成る複合的な卓越性であり、その2者の釣り合いが適切に保たれねばならない。これゆえに要請される徳の性格が中庸である。
超過の悪徳と、不足の悪徳の中間にあるものであって、以下のような例が挙げられる。

・向こう見ずと臆病の間の勇気
・悪ふざけと野暮の間の機知
・愛想(おべっか)と意地の悪さの間の友愛
・引っ込み思案と恥知らずの間のつつしみ
・浪費とけちの間の気前のよさ         (アリストテレス(2002) 77頁)


4.正義

 アリストテレスは、正義を2種類に分ける。適法的・合法的であることを意味する普遍的正義と、均等的であることを意味する特殊的正義である。前者は、その国家ごとの法に基づくものであるため、一般論として論じうる特殊的正義について述べる。(均等的すなわち公平であることは、適法的であることのごく一部にすぎないので、「特殊」と呼ばれる。)

 更に、特殊的正義も2種類に分けられる。1つは配分的正義で、名誉・金銭・権利などをどのように均等に配分するかという問題である。アリストテレスの倫理思想の特徴は、その均等さを単純均等分配としないことであろう。業績や卓越性の程度に応じて差別しながら比例配分することを是とし、それは幾何学的比例と呼ばれた。

 もう1つは調整的正義で、交渉や取引の中で公平な調整をはかることである。こちらは損得の中庸に至るべく足し引きで調整するため、算術的比例とされた。売買や貸借のように双方の意志が加わる取引と、犯罪の被害者・加害者の間のように片方の意志は関与しないで調整が行われる取引とがある。


参考文献

アリストテレス(2002)『ニコマコス倫理学』朴一功訳、京都大学出版会

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