カルチャーセンターの入っているビルを出て、ゆうこは足早に地下鉄の駅に向かった。







腕時計を見た。


ここから青山一丁目の駅までは、少しかかる。


横断歩道の信号が、点滅を始めた。







と、母猫からはぐれたのか、茶トラの子猫が、歩道の真ん中で右往左往しているのが目に入った。


信号が、変わった。







ゆうこは、思わず飛び出した。


子猫を胸に抱えた瞬間、体がふわりと宙に舞った。


いつもより、星空が近く、美しく見えた。








「ヒロさん・・・冬の星座、一緒に見たよねぇ。」








手を伸ばせば、確かに掴めると思った。


オリオン も、ヒロさんも。


アルテミスは、私・・・?








きらきらと煌めく星空に抱かれながら、ゆうこは、ゆっくりと意識を失っていった。

昨夜の雨で、街路樹の花水木もほとんど散ってしまったようだ。






「先生。」


との約束の時間を気にしつつ、明日のスケジュールを確認していると、美彩に声をかけられた。


美彩は珍しく、長いストレートの艶やかな髪を、今日は結ばずに下ろしている。









「あら、美彩さん。今日は、残業?」


時間は、すでに8時を回っている。








「ええ。ちょっと片付けです。実は、急なんですが、今月いっぱいで退職することになって。」


「そんな・・・知らなかったわ。」


「○○社の文学新人賞、獲ったんです。」


美彩が、遠慮がちに言った。







「ええっ、本当?それも全然知らなかったわ。すごいじゃない。おめでとう!」


ゆうこは、思わず美彩の両手を取った。


「ありがとうございます。」


美彩は、今にも泣き出しそうな顔になった。





「それで、出版社から連載の話をいただいたんです。フリーのライターの仕事もありますし、それだけで、生活もなんとかなるかなぁと思って。書くことに専念したいんです。」


「そう。決めたのね。」


「はい。」


「頑張って。応援してるわ。」


「ありがとうございます。」


美彩が、ゆうこの手を握り締めたまま頭を下げた。





「じゃ、先生。私はこれで失礼します。」


くるりと踵を返すと、美彩は教務室のドアに向かった。


ぴしりと背筋の伸びた美しい後ろ姿に、ゆうこは、しばし見とれていた。







私も、決めたんだもの。


迷いは、ない。


メールで資材の発注を済ませ、パソコンの電源を落とすと、ゆうこは席を立った。

「そうね。じゃあ、健ちゃん。私達、もうこうして逢うの、やめましょう。」


思わず口をついて出た言葉に、ゆうこは自分でも驚いた。


しかし、遅かれ早かれ、言わなければならない言葉だった。







「ゆうこさん、どうして・・・」


健人が、唖然とした表情でゆうこを見上げた。






あの人 と、結婚するの?」


「しないわ。」


「だったら・・・」


「結婚しないからといって、じゃあ、健ちゃんと、というわけにはいかないわ。」


「僕は、いいんだ。このままでも。ゆうこさんが、ちゃんと僕のことを好きになってくれるまで待つつもりなんだから。」


「健ちゃん・・・」


ゆうこは、健人の対面に座り直した。







「健ちゃんの気持ちは、嬉しい。私も、健ちゃんが好きよ。でも、その気持ちは、ヒロさんに対する気持ちとは、ちょっと違うのよ。」


「だったら、どうして?どうして、彼についていかないの?」


「うん・・・うまく、言えない。だけど、もう決めたの。」


「じゃあ、僕、待つよ。」


「だめ。」


ゆうこは、きっぱりと言った。






「帰って。」


「いやだ。」


「お願い。」


「だって、帰ったら、もう二度と逢えない。」


健人が、椅子を蹴って立ち上がった。







「お願いよ・・・」


ゆうこも立ち上がって、健人を促した。






「本当に?ゆうこさん。」


「うん。」


「・・・わかった。もう、来ないよ。」


「ごめんなさい。」







健人は、意を決したように、荒々しく上着をつかむと、足早に部屋を出ていった。


ドアが閉まる大きな音が響き、ばたばたと足音が遠ざかっていった。







ゆうこは、ドアの鍵をかけるのも忘れて、しばらく呆然としていた。


震える自分の肩を抱き締めながら、そのままリビングに突っ立っていた。







これで、よかったのだ。


テーブルの上のカップを手に取ると、冷えたコーヒーを一気に飲み干した。


明日、ヒロさんに 逢おう。


ゆうこは、ようやく自分の進むべき道が見えたような気がした。

地下駐車場に車をとめて、そのままエレベーターで、5階の自分の部屋に向かった。


腕時計を見ると、11時を回っていた。


ゆうこは、エレベーターの壁に背をもたせかけて、ほうっとため息をついた。


父の容態も落ち着いたようで、先週べそをかいていた妹の尚子にも笑顔が戻っていた。


このままいけば、来週には退院できるとのことだった。







さて、と。


ヒロさん に、連絡しなきゃ・・・


ゆうこは、エレベーターを降りて、部屋に向かった。








キイを差し込んだところで、いきなり後ろから抱きつかれた。


声を出す間もなく、心臓が止まりそうになった。










「僕」


振り返ると、健人が満面に笑みを浮かべて立っていた。






「もうっ!びっくりするじゃない!寿命が縮まったわ!」


ゆうこが、本気で怒りだした。







「ごめん。そんなに驚かせちゃった?」


「当たり前じゃない、こんな時間に。これでも、一応、か弱い女性なんだから!」


「や~、ゆうこさんは、いつも気丈だからさ、あんまり取り乱したりしないかと。えへへ。結構可愛いところもあるんだね。」


「何言ってるのよ、健ちゃん。それに、ここに来る時は、前もって連絡してって言ったでしょう?」


「ごめんなさい・・・」


「・・・来ちゃったものは仕方ないけど。」


健人が急にうなだれたので、ゆうこも慌てて言った。







「もう、いいわ。とりあえず、中に入って。」


ゆうこは、健人を促して部屋に入れると、明かりをつけた。







「あれ?ゆうこさん、それ・・・」


健人が、ゆうこが手に提げていたデパートの紙袋に気付いた。






「ああ、これ?ワイングラス。この間割っちゃったから。」


「新宿のT屋?」


「そうよ。」


「ふうん。」







健人が、視線をそらせた。


ゆうこは、気づかないふりをして、キッチンに立った。







「何飲む?コーヒー?」


「ああ、うん。なんでもいい。」


健人は、ダイニングの椅子に腰を下ろすと、テレビを点けた。






ゆうこは、湯の沸くのを待って、コーヒーを煎れると、カップをふたつ、テーブルの上に置いた。


「ね、健ちゃん。」


「何?」


「今日、健ちゃんもT屋に行ったでしょ?」


健人の顔がみるみる赤くなった。





「な、なんで?」


「そんなに驚くことないじゃない。たまたますれ違ったのよ。」


「あ、あれは・・・」


「別に、いいのよ。健ちゃんに、若いガールフレンドがいてもおかしくないし。」


「違うんだ、ゆうこさん。」


健人のあまりの慌てぶりに、ゆうこは、ちょっと意地の悪い気持ちになって続けた。





「それから、東口の韓国料理の店・・・」


「ええっ?!ど、どうして?」


健人が、ますます慌てた。


「だから偶然だって。」






「彼女は、同じ劇団の同期なんだ。買い物に付き合って欲しいって言われて、付き合っただけ。それで、そのお礼に、って食事をご馳走になったんだ。それだけだよ。」


「ふうん。」


「信じてない?」


「それにしては、仲良さそうだったじゃないの。」


「そう見えただけだよ。」


健人が、頬を膨らませた。







「そう。」


「なんだよ。ゆうこさんだって、あの人 と・・・」


健人が、言いかけて、やめた。








「そうね。じゃあ、健ちゃん、私達、もうこうして逢うの、やめましょう。」

「どうかした?」


靖子が、サンチュを左手に持ったまま、怪訝な顔で聞いた。






「健ちゃんが、いる。」


「えっ?どこに?」


「しいっ!振り返らないで。」


ゆうこが、身をかがめて小声で言った。


「若い女の子と一緒みたい。」








「あら・・・噂をすれば、なんとやらだけど、ちょっと面白い展開になってきたわねえ。」


靖子が、肩をすくめながら、でも、なんだか楽しそうに言った。







「ちょっと、やめてよ。」


「どうするの?挨拶くらいする?」


「まさか。向こうも困るでしょうよ。さあ、早く食べて出ましょう。」


ゆうこは、伝票をつかむと立ち上がった。








「えっ。ちょっと待って。」


靖子は、慌てて口の中の物を飲み込むと、ゆうこのあとを追って、入口に向かった。







今日は、昼間の更新みたいです^^→ここ