昨日の台風が、嘘のように爽やかな朝だった。
「まったくもう、6月に台風なんて信じられない・・・」
建て付けの悪いドアの隙間から吹き込んだ雨水で、床が水浸しだ。
濡れた床に雑巾掛けをしながら、ルナはつぶやいた。
先週買ったばかりのマキシの裾が、びしょ濡れだ。
「あ~あ、今日は、いい天気だと思ったのに・・・こんな恰好で来るんじゃなかった。」
雑巾と一緒に、マキシの裾を絞った。
「大家さんに、言っとかないとね。」
ルナは、雨水でいっぱいになったバケツを持ち上げて外に出ると、歩道の植込みに向かってぶちまけた。
「お嬢さん。」
突然、肩越しに声をかけられて、びっくりして振り向いた。
30半ばのルナに向かって、「お嬢ちゃん」と呼びかけるのは、向かいのビルのオーナーの老婦人だけだ。
ルナが無言で振り向くと、サングラスをかけた顔色の悪い男が立っていた。
「・・何か?」
「僕のこと、覚えてる?」
こんなところで、こんな年の女にナンパ?
頭のおかしな男だと思い、ルナはすぐさま視線を外すと、
「いえ、知りません。」
と、冷たく言い放った。
「そうか・・・そうだよね。いや、いいんだ。」
迫真に迫った悲痛な男の声に、ルナは、ふと気になって、店に戻りかけた足を留めた。
「あの・・・どこかでお目にかかったこと、ありましたっけ?」
男は、かけていたサングラスを外すと、軽く会釈をした。
「小塚です。」
「小塚さんって、あの・・」
「先生。その節は、家内が大変お世話になりました。」
今度は、深々とお辞儀をした。
「一度だけ、家内と一緒にこちらに伺ったことがあるんです。」
「ええ!覚えていますとも。奥様と仲良く、鉢物を選んでいらした・・」
「早いもので、家内が亡くなって、半年になります。」
「そうでしたね。あんなにお元気でいらしたのに・・私もまだ信じられません。本当に楽しい方で、花教室でも、ムードメーカーでしたもの。」
突然、男の顔がくしゃりと歪み、大きな目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「小塚さん!」
ルナは、そんな男の涙を見るのは初めてだったので、慌ててバケツを放り出し、タオルを取りに行った。
「お気持ち、お察しいたします。」
「寂しくてねぇ・・家内を失くしてから、何にもやる気にならない。仕事も、早期退職してしまった。」
「そうでしたか。」
ルナは、タオルを差し出した。
男は、タオルを握り締めたまま、天を見上げて、ぽろぽろと涙を流し続けた。
「早く、迎えにきてくれないかと、毎日そればかり考えてしまうんです・・」
「素敵な奥様でしたもの。無理もありません。でも、ご主人が毎日そんな風に泣き暮らしていたら、奥様もさぞご心配でしょうね。」
「そうでしょうか。」
「ええ。まだ、あちらには、いらしてないと思いますよ。」
「毎日、遺影に話しかけているんです。でも、家内は、何も答えてくれない。」
ルナは、くすりと笑った。
「何か、おかしいですか?」
「ごめんなさい。だって、奥様、そんなところには、いらっしゃいませんもの。」
「だったら、どこに?」
「そうですね・・たとえば、ほら、そこに。」
ルナが、男の後ろを指差した。
「えっ。」
男の振り返った先に、薄紫色のトルコギキョウが、大きなガラスの花瓶に生けてあった。
幾重にも重なった花びらが美しい八重咲きのトルコギキョウ。
ルナが、朝一番に生けたものだ。
「ああ、家内が好きだった花だ。トルコギキョウ・・って言うんですか?」
「ええ。薄紫色の上品な美しい花。私も、この花を見るたび、小塚さんの事を思い出しています。」
男は、愛おしそうに、そっと花びらに手を触れると、胸いっぱい香りを吸い込んだ。
「花言葉は、あなたを想っています。」
男が、ルナの方を振り返り、ようやく笑顔を見せた。
「家内は、こんな近くにいたんですね。」
「ええ。小塚さんや、私が思い出す度に、そばに来てくれますわ。」
「先生。この花、全部ください。」
「ええっ?!全部、って、50本以上ありますよ。そんなに、たくさん・・」
「いいんです。今日は、家中に、この花を飾りたいんです。」
「わかりました。」
ルナは、トルコギキョウを一本だけ英字新聞に包んで、男に手渡した。
「残りは、あとで配達します。」
男は、黙って花を受け取ると、明るい足取りで、店を出ていった。
女は、永遠に好きな男のそばにいたい・・
今夜は、excentrique
は、やっているだろうか?
ルナは、配達が済んだら、顔を出してみようと思った。
