突然ですが、ブログのタイトルを
「星になったアイドル 岡田有希子」に変更いたしました。
星型のアクセサリーが大好きで、たくさん集めていたユッコは
18年と7ヶ月と数日の短い一生を終えて、1986年4月に星になってしまいました。

{E39A0DD5-FB59-4444-9050-9528F5739A9F}

堀越高校の夏服(当時)を着たユッコ。
晩年の濃いメイクよりも、
素顔に近い顔が可愛かった。

今日はユッコの誕生日。
(1967年8月22日生まれ)
生きていれば、49歳。
来年は生誕50周年ですね。
つくづく、早世が惜しまれます。

高校を卒業し、社会人として新たなスタートを切った矢先の自殺。
じつは岡田有希子のように、新年度を迎えて自殺する18歳以下の若者は、
夏休み明けに自殺する若者の数に次いで多いことが、厚生労働省の調べで分かっている。
希望に満ちた新たなスタートになるはずが、一部の若者にとっては
新学期・新年度というひとつの節目が、大きな不安やプレッシャーに直結する。

ユッコの場合は、3月に高校を卒業した後に自らの希望で
下宿していた所属事務所の社長の自宅を出て、南青山のマンションに転居した。
社長宅は世田谷区成城にあり、ユッコが想いを寄せていた中年俳優の自宅も近い。
学校を卒業し、新たな生活を始めるために住み慣れた街を出たことが、
かえってユッコの孤独を深めたような気もする。

しかし、新年度を迎える前に既に予兆は現れていた。

生前、雑誌に寄せた手書きのメッセージ。
(もうすぐ18歳…とあるので、1985年の夏と推定できる。)

{151D3300-0BF6-41B4-9CE5-D1B3F2351CC4}

「最近、情緒不安定気味」
「今すっごく寂しいって感じる」
「一人で居ると気が狂うんじゃないか」

アイドルがファンに向けて書いたメッセージにしては、あまりにも暗い内容だ。
孤独と不安に押しつぶされそうになっていたユッコの心の叫び。
最後の「よ〜し がんば!」と自分に気合いを入れる言葉が、今となっては切ない。

ユッコには元々「躁鬱の波があり、感情の起伏が激しい」という気質があり、
それは家族だけでなく、共に仕事をした仲間も気付いており、
先輩俳優、マネージャー、所属事務所の専務なども同様の証言をしている。
ユッコ本人も、自身の不安定な気質を自覚していた。
しかし、周囲の人間もファンも、まさかそれが「死」に繋がるとは
この時は誰にも想像もつかなかっただろうし、
忙しい日々の中で、彼女が発信していたSOSは見過ごされていたのだろう。

当時はスマホも携帯も無かったので、
若い子が家族や親しい友人と連絡を取るとしたら、
相手の家に直接電話をかけるか、手紙を書くぐらいしか手段が無かった。
ユッコのように他人の家、しかも事務所の社長の家に下宿していたら
好きな時間に好きなだけ電話で話すなんてことは、できなかっただろう。

デビューしてからの2年間はスケジュールがビッシリ埋まり、
休みがほとんど無く、高校にも満足に通うことはできなかったが、
毎日忙しくしていれば、寂しさや不安を忘れることができた。

16歳から18歳の多感な2年間を、懸命に駆け抜けたユッコ。
死の2日前、故郷の名古屋で行われたコンサートの後に
ほんの短い時間だったが、佐藤佳代に戻って実家に立ち寄った。
そしてそれが、生前最後の「里帰り」となってしまった。

東京に戻る前、佳代は
「私は好きでやってるからいいんだけど、
お父さんかお母さんどちらかが東京に来た方が、お金もらえるみたい」と言い残している。
母親は、この言葉の裏に隠れていた佳代の寂しさに
なぜその場で気付いてやれなかったのかと、深く後悔している。

「結局、私は母親として佳代を守ってやることができなかった。
佳代が一番必要だった時に傍に居てやることができなかった。
距離が離れている間に、心も離れていたのではないか…」
(岡田有希子遺稿集「愛をください」より)

母親の後悔と深い悲しみ。
親より先に子が死ぬことほど
つらく悲しいことは無いだろう。

家族だけではない。所属事務所のスタッフ、仕事の関係者、共演者、
高校の同級生、故郷の友人たち…誰もが皆、ショックを受けたはずだ。
ユッコをずっと応援し続けてきたファンの動揺も計り知れない。

30年経った今でも、ユッコの死は私たちに様々な問いを投げかける。
ユッコが亡くなった時は小学生だった筆者も、今は二児の親になった。
その子らも、いずれは手がかからなくなり、親の目の届かない時間が増える。
親として子に何を伝え、子の成長をどう見守っていくべきか…
佳代の母親が残した手記、佳代の日記や詩を読み返しては、考える毎日である。