豊前市の求菩提山は、かつて「一山五百坊」

と云われた彦山六峰の霊山で、

「求菩提山文書」によれば、継体天皇20年(526)年

猛覚魔ト仙が「顕國霊神の祠」を建て、

開山したのが始まりとされます。

 

ト仙は、威奴岳に住む八鬼の山霊が強暴なため、

降伏させ甕の中に封じたと伝えられています。

 

甕を埋納した所が「甕の尾」で、犬ヶ岳の主峰です。

 

その後、大宝4(704)年の役行者の入山、

養老4(729)年に行善により求菩提山護国寺が建立され、

さらに、平安時代末期に中興の祖頼厳によって修験道がもたらされ、

明治元年の神仏分離令まで、修験道場として栄えました。

 

山内には修行の場や山伏たちが生活をした

坊跡、堂宇、墓などの遺構が残り、

平成13(2001)年に国の史跡に指定されています。

 

 

 

護国寺は、神仏分離令で国玉神社と改められ、

旧社格は郷社です。

国宝「銅板法華経・銅筥」があることで知られます。

御祭神は、伊弉諾命、伊弉冉命、

顯國玉神(あきつくにたまのかみ)です。

平成3年の台風で拝殿が倒壊したため、現在は神殿のみです。

 

本殿後方には巨石群があり、かつては岩の間(辰の口)から

水蒸気が立ち上っていたそうです。

巨石群は磐座と考えられます。

 

 

(現地案内板より)

国玉神社上宮

求菩提山の山頂(標高782m)は、神が降りるところとして

古くから特別な場所でした。国玉神社上宮周辺にある巨石群は

盤座と呼ばれて、神が宿ると信じられていました。

江戸時代に記された「求菩提山雑記」には、

山頂は常に雲に覆われ、怪しげな光が見え、

蒸気を噴出する「辰のロ」という場所があると記されています。

こうした特徴が、古代人の自然崇拝を呼び覚まし、

求菩提山に芽生えた山岳信仰の原点となったと考えられます。

平安時代後期、修験道が山に伝えられると白山権現(十一面観音)

と地主権現(薬師如来)が二所権現として祀られました。

南には遠く犬ケ岳を望むことができ、

修験者たちはご神体である犬ケ岳を仰ぎ見たことでしょう。

 

 

国玉神社中宮から国玉神社上宮まで「鬼の石段」

と呼ばれる急な石段が果てしなく続きます。

決して「鬼婆の石段」でも「鬼嫁の石段」でもありません。

健脚の私でさえ息が上がるほどの急勾配です。

 

石段の途中で、笈吊岩から数えて5回目となる

6人組のグループとすれ違いました。

一ノ岳から尾根を縦走してきたとか、

うんざりするような長い尾根を下るなんて

頭が下がります。

 

 

上宮を参拝して、すぐに引き返します。

座主坊園地の駐車場に戻ってきたとき、

先ほどの6人パーティーを見つけました。

 

「麓まで乗っていきませんか」と声を掛けようとしたら

私と入れ違いで、遊歩道を下りていきました。

 

さすがの私も、走って追いかけ

声を掛ける元気はありませんでした。

 

私は決して薄情ではありません、

時々、欲情するだけです。

 

 

ヒメシャガ

アヤメ科の多年草で、北海道西南部、

本州、四国、九州北部に分布します。

日本特産で山地の森林にある岩場や急斜面に見られます。

福岡県指定天然記念物

 

 

 

 

 

 

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