面白い記事があったので、転載する。いまからもう46年前の記事である。

ショックレポート ファンとぼくは対等なんや…… ジュリーの問題発言 その後!!

ファンレターは読まない。贈りものもいらない。彼女はいるよ──。

雑誌『平凡』1972年12月号に掲載された。 

当時、この雑誌の発行部数は100万部を越えていた

 

10月号(1972年)『新・沢田研二大事典』の〝ジュリー発言集〟は意外な反響を呼んだ。編集部へ殺到した手紙は約千五百通。その内容は〝ジュリーの言うとおりだ〟という賛成派が約60%。〝ひどすぎる!〟という反対派が20%。残りの20%も〝ショックを受けた〟という意見が大半。本誌では、読者の手紙の主な内容をジュリーに読んでもらい、もういちど本当の気持ちを語ってもらった。

[お互いムダ! やめよう]

★場所は青山スタジオの事務室。ファンの声をそのまま、ジュリーにぶつける──。

──なぜレターを読まないの?

「いろんな人のいろんな意見がある。それをすべて読んだとしても、ぼくがどうするかということは結局ぼく自身が決めないかんことでしょう? 読まなくても、ファンの言わんとすることはわからなイカンし、ぼくはわかっているつもりや。それは仕事の面で答えているはずです。まがりなりにもプロやし、もしわからなかったら、第一線でやっていけんでしょう」

──昔はレター欲しいと思ったこともあったでしょう?

「たしかに昔はうれしかったし読んでファンを知りたかった。でも今は、はっきりいうて、読んでもプラスになることは少ない。むしろその時間だけ損をすることがある。今はレターを読むよりも大事なことがいっぱいあるわけですよ。仕事のこと考えたり……。昔はそうやったから……という言い方は卑怯や!!」

──読むのも仕事の一つでは?

「芸能人はレターを読むもんやと、いつ、誰が決めたん? 返事を書くとか、あって話をするとか、そのためにぼくはいるんではないよ。一部ではあってもすべてではない! ファンの希望は仕事──歌で返すのがぼくは当たり前やとおもう」

──ジュリーはファンを無視してる。ファンはいらないの? 

「ファンがいなかったらぼくら仕事できへんのに決まっている。かといって、ファン上位かというとそうじゃない。〝ファンとぼくらは対等である〟と主張したいんや。レターをいらへんというのは、せっかく出してくれても読まへんかったら悪いから、ぼくのふたんになるから、ということですよ。レターが来ない方が仕事がやりやすい、といったら、むわかってくれるかな?」

[おせっかいはやめて!]

──贈り物もいらないという。せめて受け取るのが礼儀ではないですか?

「ワシは金持ちやから、欲しいものは自分で買う──という意味では決してない。人むそれぞれ〝好み〟があるでしょう? もろうたものは正直いって、大事にできへんよ。どうしても他人行儀になるんや。自分で買ったものでないから愛想もないし。精神的にわかる、というだけで、あんたたちは満足できへんの? 〝捨ててもいい〟なんてぼくに責任をすりかえるのはだいたい卑怯やね。お互いにムダなことは、ぼくはしとうないんや」

──他のタレントは決してそんなことを言わないのに、ジュリーは冷たい!

「いわん人は、それでいいやない。ぼくは冷たいと思われてもいい、でも言わずにおれん、という気持ちで言ってるのやから。例えば〝ジュリーは冷たい人間や〟と、わかった人は、それだけで幸せやないですか。〝芸能人だから〟芸能人にとっては──そういう見方、ぼくは大嫌いや! 侮辱や! ぼくは芸能人なんやから」

──あまりに正直すぎます。ジュリーが損をするのでは?

「ファンが減ったって、ぼくはかまわない。生意気やと思われてもいい。〝損をしますよ……〟そんなおせっかいは、やかんといて欲しいワ。もうぼくがイヤなら、ファンをやめてくれていい,あんたたちは自由なんやから」

──ジュリーの意見は正しい。いやがることはやめて、レコードを買ったり、歌を応援しようというファンも多いが。

「誤解のないように言うけど、ファンの人に〝レコード買うて〟とは絶対に頼まへんよ。〝聞いて下さい、もしあなたがよかったら買って〟とは言うけれど──。ファンクラブで〝リクエストして〟と頼んでいるのを聞いた時ぼくは〝そんなことするな!〟とおこったことがある。ファンにものを頼んだら〝対等〟の立場になれへんから、イヤなんや。〝ジュリーのためにリクエストしよう、ジュリーのために買おう〟──そういうのはやめて欲しい! それによって売れんようになってもかまへん」

[来年あたり結婚する?]

──ショック! 彼女はいるってホント?

「もう24やし、ぼくにも彼女ぐらいいるよ。〝ぐらい〟というかんじでね」

──〝彼女〟とは、結婚につながる恋人、という意味?

「ぼくは、恋愛と結婚とは同じやと思うし、つき合うときは軽々しくつき合えるもんではない。交際というのは、恋愛の延長が結婚やと思うているから……。それでわかるでしょう?」

──来年結婚するの?

「前にも言うたとおり、希望であって、まだどうなるかわからん。まわりの人に相談したこともないし、ぼく自身決めてもいない。ただ、来年あたりしたいなと思っていることは事実」

──どんな人か知りたい! やっぱり芸能関係の人?

「書いてあったとおりですよ。相手の名前は決まるまでは言えん。〝誰とつきおうてます〟そんな報告はいちいちする必要はないでしょう。いずれ結婚すると決めた時にわかることだから」

──ジュリーは〝結婚の予告はしない〟という。だったら、彼女がいるということも言って欲しくなかった。

「彼女がいる──と言うただけでファンをやめる人もいるやろ。それはそれで大いに結構!

ぼくが結婚した時ファンをやめるんやったら、今やめて欲しい。ファンの人たちはぼくらを選べる、イヤになったら他の人に移ることもやめることもできる。同じようにぼくも、ファンを選びたい。失礼なようだけどぼくはファンをふるいにかけたい。それによるすべての結果はぜんぶ自分で責任をとりますよ。今までのことすべて、カッコよく言っているのでは決してないですよ。ぶさいくに一生懸命言っとるんや! こんな得にもならんようなことを……。この発言をなるべく多くのファンの人に読んで欲しい。へんにぼくの言うことをわかろうとする必要はないけれど」

★タイガース時代と同じ〝ジュリー〟のイメージで見ていた人には、あるいはショッキングな発言かもしれない。彼はいま、自分自身の中で〝変身〟しようとしている。この発言をどう受けとめようと、それは読者の自由かも知れない。が、『スターとファン』のつながりを、もう一度考えてみる必要があるのではなかろうか? ジュリーもそれを望んでいるにちがいない──。

 

これを読んだ限りでも、当時、沢田研二という歌手がいかにシビアに状況と自分を見つめていたかが分かると思う。いまの沢田研二さんには現代のマスコミを信用していないところがあり、調べてみたが、テレビで自分の立場を説明したり、雑誌でインタビューを受けて近況を語ったりというようなことをほとんどしていない。

彼の人間像をわかりやすく説明した文章も見当たらない。だから、オレが沢田研二さんについて書いた(一)と(二)の原稿を何人もの人が読んでくれたのだろう。

前にも書いたことだが、オレが一緒に仕事をしていたころの彼には《孤高》と書いてもいい、周囲に対する超絶した雰囲気があった。それはいろんなマネージメントや演出があってのことだったのだろうが、日常的にも他のタレントたちとは全然違う精神を持って芸能活動をしていた(いまもしている)からだと思う。いまの彼が様々のことについて、どう考えているが、原発廃止などの政治的なメッセージを重要なことと考え、大地震の被災者たちになんらかの援助をしなければと考えている(オレはこれをものすごく正常な感覚だと思う)ことだけは、なんとなく、作る作品などで伝わってくる。

しかし、いまの彼には歌手として、大衆とどう向き合うかなどについての発言はほとんどない。あっても、マスコミが取り上げるのは「気に入らなかったら帰っていいよ」というような、枝葉の、そこだけ切り取ったら過激発言になってしまう、そういうようなことばかりだ。沢田さんはたぶん、現代の日本の大衆社会に寄生するように存在する、ジャーナリズムにもコマーシャリズムにも飽きたらないものを感じながら仕事しているのではないかと思う。

この話は、また、しばらく間をおいて、頭のなかを整理してからつづきを書きます。

 

今日はここまで。 Fin.