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プラド。


1990年、ピカソのゲルニカと出会ったプラド。


この絵との出会いで私の美術との関わりが始まったと言っても過言ではないわけですが、当時ゲルニカはプラド美術館の防弾ガラスの中にあり。


触れてはいけない瞬間を黙って封じ込めたような、あのガラスを破ったら何か怖いものが出てきてしまいそうな、どんな言葉を並べても説明しきれないあの無言のエネルギーに、金縛りのように立ち尽くしていたことは、今でもよーく覚えており。6歳のガキンチョだった私は、どんな意味かもわからず聞いたままに「ぼうだんがらす」とひらがなで日記に書いたものでした。


二度目に見た時はレイナソフィアに移されていて、防弾ガラスも外され。世の中が平和になったのか、歴史が遠のいたのか、でも「過去の絵」になるのは何かが違うと思いながら、随分と柔らかい印象になったこの巨大なキャンバスの前で、同じくぼーっと突っ立っており。


3度目は….って続けると長くなりそうなので、私の個人的なゲルニカへの想いはさておきますが、上野の国立西洋美術館にてプラド美術館展が開催されております。


 さてさて、2018年のテーマはベラスケスと絵画の栄光。確か数年前もプラド展やってたなぁ。結構西洋美術館、頻繁にやっていらっしゃる気がする。なんとなくヨーロッパの空気をまといたくて、真冬の氷点下のボローニャで凍えそうになりながら買った薔薇のニットブーツに、ボルドーのボルサリーノを合わせて見たものの、気づけばスペイン色ゼロ。いやさ、desigualの半端なくド派手なカーディガンあったんだけど、Momaとかポンピドゥならわかるけど、プラドだしなぁっていう。あんまり明るい色って感じじゃない。


これ私の勝手なイメージですが、スペイン美術って総じて影を背負っているものが多い気がして。ベラスケスとかルーベンスとか、宮廷画家バリバリの華やかさは勿論あるけれど、それでもなんだろなぁ、ぱかーんと明るくない。そして同じ宮廷画家でもゴヤとか、それはもう半端なく暗い。時代を変えて、ピカソ、ダリとかに目を向けても、そう明るくはないし。「反戦画だから」と一言では片付けられない何かがある気がして。しっかり見すぎると体が重くなるのですよ。まぁ私だけかもしれませんが。


ただ逆に言えば、そのブラックな部分を逃げずにどんと出してくれる分、その潔さがよくて。静物画でも、影のバランスが強いものの方がリアルに見えたりするでしょ。カラバッジョの影の表現とも通ずるものがあるかもしれませんが、明るい色味ばかりよりも、嘘のない色合いが私は好きだったりします。その瞬間の真実を切り取ってるような気がするんですよね。


こう言う展覧会の時って、お気に入りが一つ二つあればいいかな、と思ってまわるのだけれど、今回私がやられたのが、スルバラン。うーん、この人の絵は宗教画でも、人物の体の中に斬られたらどくどくと流れてくるような、赤い血というか、動脈を感じるのです。筋骨隆々な描写は他の画家でも山ほどあるけれど、その人物というか神様の一つ一つの筋肉が、小さな日々を刻み込んでいるようで、いわば「生きてきた時間を感じる体」というか。それがある意味とても人間的。そういった点で、ものすごく生々しいけれど。人間だってそうだけれど、文句なく美しいよね、そういう体は。見た目の良し悪しではなく、生き様、という言葉が近いのかな。


今回は一点一点に深入りしすぎないように気をつけていたこともあるけれど、テーマも普遍的でわかりやすいし、贅沢に空間を使って広々展示してあるので、トータルで見やすいです。どっしりした絵を所狭しと並べられると、それだけで疲れちゃうけど、こういう選抜戦みたいな展示は、本物のプラドよりエネルギー取られなくて、それはそれでよいのかも。


はじまったばかりなので、皆様是非とも足を運んでくださいませ。ちなみに今、常設展示室の奥でとんでもなくいいリトグラフ展やってます。実は私、どちらかと言うとこっちがどストライクで、大興奮でした。次回また書きます。


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中庭にそびえ立つ裸木。下に見えるのはロダン。贅沢なひと時。