日曜の午後は東京都美術館で「書」の公募展をいくつもハシゴした。
書の世界も、他と世界と同じでレベルに達していないと、見てもわからない。
席上揮毫の場にも出くわした。先生とおぼしき人たちが、あちこちにいて、
互いに挨拶をかわしていた。
 
たまに先生が回りの人たちに、入選展示物のよいところ、工夫すべきところを
説明している時があって、なるほどそういわれればそうだ、しかし、自分では
気づけないな、と思ったことがある。
 
「先達の師」というのは、その道を歩むためには必ず必要だな、と思う。
ただ、あらゆるものを習うことは実際には難しいから、それぞれの考えで、この道を
歩こう、と決めるのだろう。
気をつけるべきは、珠光のいう
心の師とはなれ  心の師とせざれ  ということなのだろう。
もとは、涅槃経から来た言葉ようだが、自分て心をコントロールせよ、
という間違った説明を見ることがある。
正しくは、我執や我慢にとらわれた心にならずに励め、ということだろう。
 
 
 
書道の世界も習っている人は、20年前の半分になっているのだという。
野球もたしかそんな感じだ。宗教人口も減っているそうだし、本屋も減っている。
日本の人口はこの先何十年かで2割がた減るところで食い止めたい、というほど、減っていく
ようだ。明治時代は、3000万人ほどだったそうだが、増えるときより、減る時の
方が社会の動揺が大きいようなことを言う人がいるが、実感がわかない。
しかし、確実に縮小したり消滅するものが出ているし、これからもたくさん出てくる
だろう。
 
久しぶりに、音楽を聴きに行きたいな、と思って、「ぶらあぼ」のプレゼントに応募したら、
2月半ばのすみだトリフォニーホールのコンサートが当たった。

アマチュアながら第30回の定期演奏会で、ショスタコーヴィチの交響曲5番が聴けるとのこと。

全国には、プロの音楽家もその何倍もアマチュアの演奏家も、そして愛好家という人もいる。

そして、それぞれに先生がいるのだ。それも楽器ごとに。

音符すら読めない私には宇宙人のような人たちだ。

というか、書道にしろ音楽にしろ、ずっと続けているだけで達人といえる。

成果はそれぞれの天分や技量によるがそんなのが大事なのではないのだ。

只相続すること、これができることが達人なのだと思う。

この「相続」という言葉は、世間の一般用語では、財産を引き継ぐ意味で

受け身でいただくような感じで使われていますが、主体的に続け続ける、

の意味です。受け身では、なかなか芸事にしても続かないものですよね。

栄誉や地位や番付を上げるための努力ではないのです。

語弊はありますが、ゴールなしで歩き続けることを楽しむようなことですね。

 

それはそうと、2枚くれるというから、誰か誘うか、あるいは一枚返上するか、来週あたりには決めないと。