指輪・マリッジ リング の 幻影

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不倫をする既婚男性は、一般的に「妻」よりも彼女の方に気持ちが向いてる。でも

 

それは「愛」と呼ぶべきものとは程遠いもので、むしろ新鮮な女の肌への「好奇心」

 

と称した方が適切だと思う。

 

真っ当な男の軸足は、常に「妻」が守る家庭にあり、彼が本当に「女性として」愛

 

し、尊敬しているのは「妻」である。

 

では、なぜ「男」は大切な妻に「深慮な沈黙」と「優しい嘘」をもってしても、新鮮

 

な女の肌を求めずにはいられないのか。「男」は、女の肌につつまれると、限りなく

 

穏やかに、そして従順になれる。そして、そのまま、いつか母に抱かれている少年に

 

なり、胎児になり、その先は一匹の精虫となって消え、何もかも忘れて「非日常」へ

 

ワープ出来るからである。

 

 

「少し、飲んで帰ろうか」、帝国ホテルの「天一」を出たところで、スマホをチェッ

 

クしている美咲に向かって、男は言った。すでに9時を廻っていたが、美咲はひとり

 

で帰る気にもなれず、スマホに視線を向けたまま頷いた。

 

中二階にある「インペリアル・バー」に入ると、黒服のウエイターが「いつものお席

 

が空いてます」とカウンター席の一番奥の壁際に案内した。美咲はブラッディ・マリ

 

ー、男はデュボネを頼んだ。

 

互いにグラスを重ね、淡い照明の中で飲むうちに美咲は妙な違和感を持った。それは

 

酔いの廻った目に、男の左手に鈍い光を感じていたからだ。

 

さらに、軽く頬杖をついている男の左手に、カウンター席の上の小さな照明が当たる

 

とスポットライトのようになり、円形状の光のなかで、プラチナのマリッジ・リング

 

が、秘っそりとではあるが、どこか慇懃無礼に輝いていた。

 

美咲はその指先に、酔って上気した頬を軽く寄せ、聞いてみる。「それと同じの、奥

 

さまもしているんでしょう」。瞬間、男は頬杖を崩し、「しまったァ」という表情を

 

浮かべ、慌てたように左手をカウンターの下に沈めようとする。とっさに美咲はその

 

手をとらえて、自分の指をリングの上にぴたりと重ねる。

 

・ 隠さなくてもいいわ、とても素敵よ

 

・ 大人を、からかっちゃいけないよ

 

・ からかってなんていません。素敵だから、素敵と言ってるだけッ

 

 

男は、美咲の言葉には答えず、そのまま短い沈黙があってから意を決したように美咲

 

の手を振り払うと「ちょっと、待っててくれる」と言って立ち上がった。

 

トイレにでも行ったのか、それとも家に電話をしているのか、飲みながら待ったが

 

容易に現われず、もしかして気分を悪くさせたのかと気がかりになり始めたとき、男

 

が戻ってきた。「じゃ、行こうか」と囁いた。

 

やはり怒っているのかも知れない。美咲は「やり過ぎたかな」と後悔しながら立ち上

 

がると、男はすでに会計を終えていたらしく、先にバーを出て廊下で待っていた。

 

 

「ご免なさい ..... 」美咲が謝った。右側が総ガラスばりの廊下を、男は無言のまま

 

進み、突き当りのエレベーターにのる。そのままフロアーの表示が「9」になった

 

ところでエレベーターが停まって扉が開いた。

 

どうしてこんなところで停まるのか、酔いも手伝ってか、美咲は状況が理解できない

 

でいた。肩を押されるままに降りると、男は廊下を先に歩きはじめ、その先にある

 

917号のいう部屋の前に来て、鍵を開けた。

 

正直のところ、その時まで男の意図していたことは、まったく予想できなかったと言

 

えば嘘になるが、今から思えば、男は席を立ったとき、すでに泊まるつもりで一階の

 

フロントへ行き、鍵を取っていたようである。

 

 

部屋に入り、ダブルベットを見て美咲は初めて、ことの重大さに気がついたが、同時

 

に「そんなこと.... 」と思いながらも、こんな一夜があってもいいような気がしていた

 

のも事実だった。

 

 

美咲は、小刻みに泣いていた。特に辛いとか、悲しいわけではないが、いま、自分の

 

気持ちに従うとしたら、むせび泣くのが最も自然のように思われたからだ。

 

背を向けて、夜景を観ている男の手に、白いプラチナの指が嵌められているのを見て

 

今日一日の出来事を、美咲は、遠い昔に読んだ物語のように思い出していた。

 

 

男と結ばれたときから、美咲は男の左手にあるマリッジ リングが、さらに気になって

 

いた。「本当に私が欲しいなら、そんな指輪は外して来るものでしょう」。それを

 

つけたまま平然と求めてくる男に、美咲はその外見とは似合わぬ「無神経」さを感じ

 

て苛立っていた。

 

好ましく、頼り甲斐のある人だと思いながらも、いまひとつ全身を燃やして、のめり

 

込めないのは、情事のさなかにまで、その指輪をしている男への不満というか、反発

 

があるからである。

 

 

今は、妻より君の方が大切だ、その言葉に引き寄せられように、美咲は顔を寄せた時

 

男の左手が後ろ髪から耳もとに触れる。

 

自分の耳たぶにプラチナの感触を覚えて、美咲はビクッと身を硬直させた。そして首

 

を振りながら、指輪のはまった左手を掴むと、そのまま男の方へ押し返した。

 

どうしたのか、というように、男は美咲の顔を覗き込んだが、すぐ左手が押し戻され

 

るのを知って、リングに気がついたのか、その手を後ろへ引いた。

 

 

いずれにせよ、男は、ようやく気がついたようである。いや、あるいは既に気がつい

 

ていたのかも知れないが、急に指輪を外すと、女性の歓心をかおうとする態度があか

 

らさま過ぎると思って、迷っていたのかも知れない。

 

 

美咲が、男の左手を押し返してから一週間後、再び二人で逢ったとき、男の薬指から

 

見事に指輪が消えていた。

 

男は「どうだ、スッキリしたろう」と、自分の左手を広げて見せたが、美咲はかすか

 

にうなずいただけだった。男は、指輪を外して来たことを喜んでくれていると思って

 

いるようだったが、美咲の気持ちは、それとは遥かにかけ離たものだった。

 

 

そこには、リングの形に合わせて、漂白したように白い指輪の痕跡が鮮やかに浮き出

 

て居たからである。他の指が、そして左手の薬指さえも陽に灼け、健康的な肌色で染

 

まっているのに、一箇所、リングの痕だけは帯状に形どられ、そこだけは「白い別の

 

生き物」のように、美咲をにらんでいるようで、恐怖すら覚えた。

 

 

当然のことながら、このリング状の白い肌は、同じ形をして男の妻の薬指にも刻み込

 

まれ、拭いたくとも拭いきれぬ「確かさ」をもって浸み込んでいるに違いない。

 

指輪を外してくれたことが、かえって皮肉なことに、男と「男の妻」が過ごした歳月

 

の長さと「夫婦の歴史」の重さを知らしめ、それを誇示する結果になってしまったこ

 

とに美咲は驚愕した。そして美咲の心は急激に醒めた。

 

 

女は、一瞬一瞬、愛への集中度が強いだけ、一旦醒めたら、その醒め方もまた早い。

 

それは、美咲の性格がきついというより、若いがゆえに、これから担うであろう様々

 

な生理的役目を背負った雌という「性」が、中途半端な生き方を許さない、必然の姿

 

なのかも知れない。

 

 

美咲は、いっときでも、男の「妻」に勝ち、男の身も心も全て自分に向いたと考えて

 

いたはことは「身の程知らずの思い上がりであった」とは、思いたくなかった。

 

確かに一年半という短い間ではあったが、若い男から決して得られない様々なことを

 

学び、経験し「女」として磨かれ、綺麗になったことだけは「確か」だからだ。

 

 

不倫の恋をしている。その思いが、常に他人に後ろ指をさされまいという気構えにな

 

り、必要以上に突っ張ったこともあった。しかし美咲は後悔などしていない。その緊

 

張感のおかげで、そして男との性愛を通して、これまでの自分を覆し、今まで自分も

 

知らなかった「もう一人の自分」を発見できたと思っている。

 

 

美咲は、その細い人差し指で、スマホに「ありがとう」という言葉をなぞると直ぐに

 

送信した。同時に、男のメルアドと携帯番号を、着信拒否にし全て削除した。

 

 

 

 

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