「人の子を見守るために専業主婦になったんと違うのに」と友人がこぼしていた。
 
彼女は近所の放置子の世話をしている。放置子のママとの面識は、ほぼ無いらしい。家は分かるが、連絡先は分からない。
 
 
 
放置子は学校から帰るとすぐに外へ出て、誰か遊べそうな相手を探している。
自宅の庭で遊んでいたり散歩していたりする知らない親子を近所で見つけると、放置子はすぐに駆け寄り、そこに参加するらしい。
 
庭遊びも、散歩も、親は「我が子と」したくてしているだけである。
何もよその子の話し相手をするために、庭で遊んだり散歩をしているわけではない。
 
しかし、友人が仕事をやめて専業主婦となり、積極的に我が子と外遊びをするようになると、ほぼ毎日、放置子もやってくるようになったと言う。
 
そこに登ってはいけないとか、道路で遊んではいけないとかいうことを放置子に注意しながら毎日を過ごす羽目になり、「人の子を見守るために専業主婦になったんと違うのに」とタイトルのセリフに行き着くのである。
 
 

 

 

 
親同士の信頼関係が築けている場合、子どもが少々のことをしても許せるし、叱れる。
 
しかし信頼関係がないとそれはできない。
その子を叱れないわけではなく、叱ることに疲れるのである。
 
「なんで私ばっかり声を張り上げて、毎日毎日よその子を叱らなあかんねん。」
 
叱らずに放っておいて何かあれば、居合わせた唯一の大人である自分の責任になる。
だから注意してやめさせたいが、何故こんなにも、自分は人の子の世話に時間も体力も費やさねばならないのか。
 
「私は、自分の子のお世話をしたいだけやねん。」
 

 

 
当の放置子が一番可哀想だと言うのは、第三者の意見である。
そこに関わってしまった当事者にとっては、可哀想なのは放置子ではなく、その子に翻弄される自分自身である。
 
守られるべき幼い子どもが社会から爪弾きにされる、子を放置する親の罪は何よりも深いと感じる。
 
 

 

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