3月7日(水)

 

事件はとうとう起こったのだ。

 

自分のおっちょこちょいぶりを知っていたので危ない危ないとは思っていたが、とうとうやってしまったのだ。

まずこの日は夜に受け入れ先の劇場にご招待していただき、ダンスの公演を観に行った。



ただ、直前まで色々と作業していたので、少し慌てていた。

はっきり言っておく。

 

どんなときも、慌てたらダメ。

 

「スマホ持った財布持った鍵持った大丈夫」と確認したはずだった。

ちょっと前に(昔の雑記を読んでみてね)、鍵をゲストハウスの玄関に置く、というのをやらかしていたので、わたしは鍵や貴重品に慎重になっていた。

いや違う。慎重になり過ぎていたのだ。

なり過ぎて、今までやったことのないことをやってしまった。

 

部屋のセキュリティケースを使ったのだ。

 

セキュリティケースにはもちろん、鍵がある。

今日は夜出かけるだけだし、持ち歩く荷物を減らそう。

だからセキュリティケースに必要ない物を入れていこう。

 

ああ。それが地獄への入口だった。

セキュリティケースの鍵が、部屋の鍵とそっくりだということに無頓着だったのだ。

ここで、部屋を出る前の確認作業まで戻る。

 

「スマホ持った財布持った鍵持った大丈夫」

 

鍵持った大丈夫。鍵持った大丈夫。

…大丈夫じゃなかったのだ。

そいつはセキュリティケースの鍵だったのだ。

それに気づかずダンス公演に感銘を受け、終演後のパーティで食事までいただいたわたしは意気揚々とゲストハウスに帰ってきた。


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そして鍵を玄関に入れようとして…あれ。

 

入らない。

 

もういちど。

 

入らない。

 

そうして気づいたのだ。

自分がとんでもない間抜けちゃんだと。

鞄をいくら探しても玄関の鍵はない。

無頓着に部屋のどこかに置いたことは明白だ。

 

なんてこった!入れない。

しかも外はめちゃくちゃ寒い。

今からホテルを探すかそれともどこかファミレスみたいな…いやデニーズはないんだここはロンドンだ。

そう悩んでいると同じゲストハウスに泊まっている方々が帰って来たではないか。

「あ、こんばんはー」

そう声をかけられ、わたしは何事もなかったかのように一緒に玄関を通った。

けれどダメだ。

部屋にもうひとつ鍵があるのだ。

入れないわたしは仕方なく共同キッチンに行った。

ここは部屋にミニキッチンがあるのだが、親切に大きなキッチンもある。

夜は誰も使ってなくてとても静かだ。

セントラルヒーティングのおかげで、ちょっと暖かい。

わたしは帰りがけにスーパーで買ったペットボトルの水を見つめながら、ここで朝まで過ごそうと心に決めた。

 

本来なら管理人さんが最上階に常駐しているのだが、この日は運悪く不在だともともと連絡を貰っていた。

だから次に管理人室が開くのは明朝の8時から9時の間。

約8時間。

 

これはもう寝るしかない。そう思い、わたしはセントラルヒーティングの近くの床にマフラーを敷いて横になった。

もしこの状態で誰か入ってきたら、マジやばいひとだと思われる。

それも分かっていたので物音がするたびにたまに起き上がり律儀に椅子に座る。

 

全然寝られなかった。

羊も数えたし眠くなる動画も観たが一向に寝られない。

しかも…いくら暖かいと言っても、底冷えがする。

窓から外が見えるのだが、なにも面白いことはない。

午前4時の段階で少々トイレにすら行きたくなってきたが、ここには共同トイレはない。

もしトイレに外に出たら、再度入るのは無理だ。

我慢できないほどではなかったので、我慢した。

 

ああ、どうしてこうなんだろう。

わたしは今までの自分の人生を振り返った。

いつも親に、気をつけろ気をつけろと言われ続けてきたことだ。

劇団のみんななんか、わたしがスマホを無造作に置いた場所を覚えていてくれる。

みんなのおかげでまともに生活できていたんだ。

みんなありがとう。

そして案の定やらかしました。ごめんなさい。

 

そんなことを思っていると、次第に空が明るくなってきたではないか。

ああ。朝だ。希望の朝だ。

そうして8時過ぎ。とうとう玄関の開く音がした。

管理人代理の方がいらしたのだ。

涙が出るほど嬉しかったが、ちょっと待てよと考えた。

 

ちょっと待てよ。

こないだのゲストハウスの入口に鍵置いちゃった事件からまだ時間は経っていない。

これで鍵を部屋に入れたままにして夜からずっとキッチンにいました、などと言ったら、こいつに部屋貸してて大丈夫かと思われるに違いない。

それはまずい。このロンドンで追い出されたらどうしたらいいんだ。

 

そう思ったわたしは、こう話しかけた。

 

「あの、さっきちょっと、インロックしちゃって」

 

さっきっていつだ!8時間前だわ!

凍えそうになりながら耐え忍んだ8時間を、さっきって!

すると、管理人代行のおねえさまはこうおっしゃった。

 

「なんだ電話してくれれば開け方があったのに」

 

え…電話…あ、緊急電話があったんですね…しかも開ける技が…

どうしてそういうの調べなかったんだ、わたしは。

二度と同じ間違いはおかすまい。

そう思った7日から8日。

 

ああ。自分の部屋ってありがたい。

そう感じたロンドンの朝。