吾輩はブスである。取り柄はまだない。

おっぱいは人並み以上にあるが、ブスの巨乳には意味がない。このままでは宝の持ち腐れ、豚に真珠、デブにサルートである。  


高校生の頃にはすでにそんな世知辛さを痛いほど思い知っていた。 私は現在のコラムニストという職業を高校3年の終わりから始めたのだが、今以上に尖った言葉を連ねていたことも要因となり、ネット上でのアンチに絶えず「ブス」「死ね」とくる日もくる日も書かれ続けた。


(左がまさかの20歳で右が24歳。これぞ4年間に及ぶ「大改造‼︎劇的ビフォーアフター」である。)


当時10代の私にとっては、自分の容姿が世間的にいただけないものであるという事実を突きつけられること以上に、成し遂げた仕事の評価が容姿によって変化することや、何を書いても最終的に〝妹尾ユウカはブスかブスってほどではないか〟という、どちらにせよ嬉しくない結論の議論に発展し、まともに文章を読んでもらえないことのほうが何倍もウザかった。 せめて〝ブスか美人か〟という争点であれ。


この頃から私は「人は見た目じゃない」という言葉を美人の寝言かブスの言い訳だと思うようになった。今はまた違った捉え方をしているので、その話については後に触れようと思うのだが、そんな卑屈な考え方を持つようになったのは、SNSのせいだけではない。


芸能人やインフルエンサーの誕生日会や飲み会には必ずと言っていいほど、同業者に紛れて謎の美人が出席している。 大体、職業は六本木、西麻布の高級店に勤めるラウンジ嬢か銀座のホステス。  あるいはニートを誇らしげに主張する    LAのキャスケットを被ったギャラ飲み女子か、新宿、三茶近辺在住の AV女優である。  


いずれにせよ彼女たちは美人であるというだけでその場にいる権利を得ている。面白くなくても、気が利かなくても、美人であることに価値があり、存在を肯定されている。  


もしも、私が現在の肩書きや優れた社交性といった手札を全て失ったとしたら、こういった場にいる権利は残念ながら与えられない。 美しさがどこへでも行けるパスポートだとすれば、ブスで取り柄のない吾輩が出席することは密入国同然となる。


美しさというパスポートの魅力はどこへでも行けるということだけではない。 ブスにとっては、どこへでも行ける権利を持っていること以上に、どこへ行くにも尻込むことのないメンタルを持っていることのほうが羨ましかった。「私が行ったら場違いだとは思われないだろうか?」なんて気が引けることもなく、ノンフィルターでの集合写真に写り込むことへの恐怖もなく、急な誘いにも下地1つ塗って顔を出せるアイツらが羨ましくて堪らなかった。 


だから、私は 20歳で美容整形手術を受ける決意をした。 それから 3年間、ジワジワと変わっていく、アハ体験のような分かりづらい整形を続けてきた結果、私はブスカテゴリーからは見事脱却することに成功した。 


2021年1月時点で総額およそ 350万円ぐらいだろうか。新車のノア 1台分、ホストへのリシャール 1本分、水戸駅からバスで 40分の中古戸建て 1軒分、叶姉妹のショール 1枚分で、ようやく私はブスからブスではない人になった。  

ちなみに 350万円は DeNAが首里城復旧支援のために投じた寄付金とも同額である。 要するに何が言いたいのかというと、この金額が高いのか安いのかなんてもう私には分からないということだ。 


容姿が正真正銘のブスからブスではない人にめでたく昇進したことにより、私は改めてレペゼンブスであることを痛感させられた。 なぜなら、ブスからブスではない人になると私をまるで美人かのように扱ってくれる優しい人が現れて、ブスの頃には全く受けることのなかった扱いを受けるからである。それにより、あの頃の自分がやはりブスであったことを再認識させられるのだ。  


ネット上で私が「ブス」と言われていることに関して、「みんな僻んでいるだけよ。あなたは可愛いからね」と言ってくれた親戚のオバサンの言葉をちょっとだけ信じていた自分が恥ずかしい。


日常の中で自分がレペゼンブスであることを再認識する機会は沢山あるが、特に人様から「綺麗ですね」「美人だね」といった言葉をかけられてしまった時に最も痛感する。 美人のように「嬉しい!  ありがとう!」と素直に言って、微笑むことができたらいいが、私には「いやいやいやいやいや」と高速で否定をした後に急いで話題をすり替えることしかできない。 一度だけ、美人の真似をして「ありがとう!」と言ってみたことがあるのだが、その直後から「『コイツ真に受けてる?  マジウケる!』と思われたのでは?」という被害妄想がどんどんと膨らみ、相手の話が1つも入ってこなくなったため、それ以来、美人のまねごとには手を染めていない。 


世の中には整形を魔法かなにかと勘違いしている人が多くいる。 実際に私も整形をするまでは「人生が一夜にして変わる大イベント」だと思っていたが、全くそんなことはなく、特別な変化は起きていない。急にモテるなんてこともない。 


しかし、人様にすっぴんを見せることへの抵抗やプールに行く際にアイプチがとれないか心配になることはなくなった。 私が 350万円と引き換えに得たものはそんな些細な幸せである。 


この先いくら容姿が変わっても、私のマインドは 20歳までとなんら変わらない。 もしも明日、 BLACKPINKの LISAや TWICEのツウィと容姿が入れ替わったところで絶対にモテない自信がある。ハイブランドの坊主に何思ふ  だからこそ、今の私は「人は見た目じゃない」という言葉に深くうなずける。 人が見た目で判断されることは事実だが、自分自身が自分を見る目はそう簡単には変わらないからだ。 どんなにラジコンのボディをカスタムしたところで、操縦士が同じならば行き着く先やつまずく段差は同じであるということだ。  


それでも私は自分の容姿を磨くことにこれからも全力で勤しもうと思っている。なぜなら、コラムニストにとって説得力はやはり欠かせないものであり、容姿はその判断材料となるからだ。ブスやデブの語る恋愛論にはそもそも誰も興味がない上に全く説得力がない。カプリコやモッチッチの誘惑に負けているような人間の書いた文章には憧憬を抱かせる力もない。


たとえ、やっている内容が同じでも、お坊さんが全身バレンシアガの私服で葬儀場に現れた場合、親族らが「ウチのばあちゃん、ちゃんと成仏されるんかいね?」という不安を感じてしまうのとほぼほぼ同じである。 南無。


ちなみに私の整形はほとんどが銀座TAクリニックの山田まりえ院長によるものである。正真正銘のブスをパチモンの美人にしてくれた人。家族に次いで心から感謝と尊敬をしている人であり、なんなら叔父とか爺ちゃんの兄弟よりも断然感謝している人である。


顔の造形自体もそうだが、この「トイレで洗顔してんのか?」ってほど荒れ散らかしたアスファルトのような肌を綺麗にしてくれたのもまりえ先生であり、本当に肌が汚過ぎて死にたかった私を明るく救ってくれたので、命の恩人とも呼べる。


現在も銀座TAクリニックには定期的に通っており、唇、涙袋、ほうれい線のヒアルロン酸注入やボトックス注射でお世話になっている。肌治療に関しては、もう1年以上通っており、かなり元が悪いので毎回の変化は劇的ではないが、確実に着実に綺麗になっている。私にとって銀座TAクリニックに通うことは、自分が綺麗になる目的に加えて、陽気で正直で愛らしすぎるまりえ先生と会えることもとても大きな楽しみとなっている。