まず以前のブログでも書いた通り、今回の裁判は、あくまで夫婦が同性にしなければいけない民法と戸籍法の規定が、憲法上の運用に違反するかを争った裁判であり、選択的夫婦別姓の可否を争ったものではない。判決文を見ても制度の是非については何1つ触れていない。したがって、合憲判断を出した人が夫婦同姓に賛成しているわけでもない。これは「夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と、夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるかと否かという憲法適合性の審査の問題とは、次元を異にする。」という判決文からも読み取ることができる。つまりこの問題は司法でなく立法で為されるべき問題なのである

 最高裁大法廷は11人の合憲判断と4人の違憲判断とに分かれた。

 合憲判断の主張は以下の判決文から読み取れる。

 

 「民法750条の規定が憲法24条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであり、上記規定を受けて夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項と定めた戸籍法74条1号の規定もまた憲法24条に違反するものでないことは、平成27年大法廷判決の趣旨に徹して明らかである。」

 

 それでは平成27年判決がいかようなものか知る必要がある。この裁判では民法750条(夫婦同姓規定)が憲法13条(幸福追求権)、14条1項(法の下の平等)、24条1項(両性の本質的平等)に違反するのではないかということが争点になった。最高裁は以下のように述べている。

 

 

争点①:憲法13条への違憲(13条の1つである人格権、すなわち氏の変更を強制されない自由を不当に侵害しているかという争点)

 

最高裁「氏が、親子関係など一定の身分関係を反映し、婚姻を含めた身分関係の変動に伴って改められることがあり得ることは、その性質上予定されており、婚姻の際に『氏の変更を強制されない自由』が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない。」

 

氏というものは個人のアイデンティティとも言えるが、それ以上に個人を他人から識別する機能をもっているから、結婚や離婚、養子などの関係性の変化によって氏が変わることは、予想されたものであるということだ。

 

争点②:憲法14条1項への違憲(夫婦同姓制において96%が夫の姓を選択しており、女性のみ不利益が生じているのではないかという争点)

 

最高裁「民法750条の文言そのものが、性別に基づく法的な差別的取り扱いを定めているわけではなく、それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない」

 

氏の変更は夫婦の同意によって決めるため、その結果夫の姓に変更にする女性が多かったとしても、それは女性の不利益ということは出来ない。もし民法の規定が、「婚姻の際に、夫の氏を称する。」などといった規定があれば直ちに違憲となる。また学説では憲法は機会の平等を定めているに過ぎない。仮に実質的平等が必要な状況下でも、積極的に要請されてはいないと解されている。したがって憲法界のこの学説に則ったものだと思われる。

 

反対意見として岡部喜代子判事が以下のように反対している。

「確かに、夫の氏を称することは夫婦が協議のうえで決めているが、96%もの多数が夫の氏を称することは、女性の社会的経済的な弱さ、家庭生活における立場の弱さ、種々の事実上の圧力など様々な要因によりもたらされている。夫の氏を称することが妻の意志の基づくものであるとしても、その意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用しているのである。その点に配慮することもなく、夫婦同氏に例外を設けないことは、妻のみが個人の尊厳の基礎である個人識別機能を損ねられ、また自己喪失感といった負担を負うこととなるから、それは個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度とは言えない。」

 

争点③:憲法24条への違憲(改姓が結婚を妨げているのではないかという争点)

 

最高裁:法制度に意にそわないところがあって、婚姻しない選択をする者がいても、直ちに民法750条が違憲とは言えないとした。

・夫婦同一原則は明治31年から日本に定着してきたもので、家族の一員であることを対外的に示して、識別する機能を有しているなど合理性が認められる。

・一方、夫婦同姓によってアイデンティティの喪失感を抱いたり、婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的信用、評価、名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があることは事実である。

・しかし、夫婦同氏制は婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく、婚姻前の姓の通称使用が社会的に広まり、それにより上記の問題は一定程度緩和され得るものと言える

 

としてそれぞれ否定した。そして今回の判決でもこの判例を踏襲した。

 

 さて今回の判決は選択的夫婦別姓制度の議論が加速する中での判決と言うこともあり、注目された。この点について最高裁は「国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」としている。3名の賛成意見として「社会情勢の変化などを踏まえた判断こそ、国会における議論が重要」と述べている。また「国民の意識の変化や社会の変化等の状況は、本来、立法機関である国会において不断に目を配り、これに対応すべき事柄であり、選択的夫婦別姓制の導入に関する最近の議論の高まりについても、まずはこれを国会において受け止めるべきだろう。」とも述べている。つまり最高裁はむしろ選択的夫婦別姓制度への積極的な議論を促しているのである。この点は報道機関ではあまり報じられていなかった観点であり、国民の間で感情的な国民審査での罷免を求める声があがった。実に短絡的だ。

 新聞社の社説ではどうか?朝日新聞は「国会が背負う重い責任」、読売新聞は「最高裁は議論を国会に委ねた」という社説を本判決の翌日に出した。主張は180度違うとはいえ、この点について触れているのはやはり全国的に影響力を持つ新聞紙として流石といった所だろう。

 

 さて夫婦同姓の運用は憲法上問題がない。選択的夫婦別姓制度の議論は国会で活発化させるべきと最高裁は示した。では国会を動かす主権者は誰だろうか?勿論紛れもなく私たちである。そうであるのなら、私たちは主権者意識を持って考える必要がある。少なくとも今秋までには衆議院選挙が行われる。選挙の争点は夫婦同姓の議論だけではないが、大きな争点として争われることは確実である。これを機会に政治について考えてみるのは如何だろうか?