【本日のメッセージ】


前奏

招詞

詩編127編1,2節

詩 編 歌 65編 8節

荒れ野にも油のしたたりあり

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

スコットランド教会新カテキズム

「感謝の規定:主の祈りの結び」

こどもさんびか

めぐみうけて[改 9(1,2 節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 191番

聖書

使徒言行録20章22〜31節

詩編37編23〜40節

説教

「主の群れに心を配る

〜神の御意志を伝えつつ」

 宮武輝彦

祈祷

讃美歌 534番

みことばの交読文

ペトロの手紙一5章 9〜11節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 544番

祝祷

報告


聖書📙


使徒言行録20章22〜31節

詩編37編23〜40節


讃美歌〜♫🌲🔔


【讃美歌191番】



【讃美歌534番】


(週報裏面)


2024915日 礼拝説教 中心聖句


わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。

使徒言行録2027,28


主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく とこしえに見守り 主に逆らう者の子孫を断たれる。

詩編3728節 


はじめに

主の教会は、主の召された羊の群れ。今日も、主の御言葉に、共に、養われたい。

「そして今、(見よ、)あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがない」とは、使徒パウロのさらなるエフェソの長老たちへの激励のことば(フィリピ224節,フィレモン22節,エフェソ書)。パウロは、患難と最期の日に備えつつ、別れの言葉を告げる。つまり、そのことが「わたしには分かって」いるとは、先の患難を予期しながら、たとえ再び会えなくても牧会における注意を促す。最期の言葉は、主の恵みの中に、深い記憶となり深く心に遺る。さらに「わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えた」と言う。「巡回」からエフェソ教会が、その多くが、幾つかの“家の集会“から成っていたことが伺える。「御国(王国)」とは、主イエス・キリストと一つ。地域教会の祈りと献身における“宣教の証”。

「だから、特に今日はっきり言います」と、パウロ自身、“霊”に縛られ、エフェソ伝道においても、主の言葉を語り続けた者として一つの証を伝える。それは、「だれの血についても、わたしには責任が」ないと言う。「責任がない」とは、「清い」、つまり、罪を問われないということ。この証は、人の証ではなく、“主”の証。つまり、御国の福音が宣べ伝えられても、心を向けず、福音に聞かないままに、魂の滅びに至ることには、御言葉の奉仕者の責任はない。言わば、パウロは、主の任務を忠実に果たしたことを、このように言い換えて、明らかにする。主イエスが十字架に引き渡された時、ピラトの声に答えて、全民衆はこぞって、「その血の責任は、我々と子孫にある」と答えた(マタイ2725節)。キリストを拒絶する世のただ中で、「血の責任」の有無を証することは、御自身の血を贖いの血とされた「主」を証しすること。「たとえわたしの血が注がれるとしても」(フィリピ217節)と証したとおりに、パウロは自らを霊のいけにえとしてささげた。さらに、パウロは、「わたしは、神の御計画(慰め、熟慮、意志、目的)をすべて、ひるむことなく(引き下がることなく)あなたがたに伝えたから」と伝える(エフェソ19~11節「秘められた計画」=「神の御心によるキリストにおいて実現した救い」それは「キリストを希望の基とし、神の栄光をたたえるため」。)

どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。と、パウロはさらに、

長老たちに注意を促す。今日、牧師長老の役割も同様(テモテ一416節)。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話(牧する、養う)をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者(見張る者)任命なさったのです。」主イエスこそ、「良い羊飼い」(ヨハネ10章)。牧師長老たちは、主の群れの中において「わたしの小羊を飼う」(同2115節)。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」(エフェソ610~20節)。使徒パウロの不在の間、長老たちには、忠実に、群れを養う任務を果たすことが求められた。パウロは後の群れにおける危険を警告する。ここで、「狼」とは「あるユダヤ人たち」。かつてのパウロがそうであったように、教会への敵意はキリストへのもの。

おわりに

「主の慈しみ生きる人」とは「清い人」。世のただ中で、キリストの血によって罪を清められた者たちを、主が守り、養い、教え、導かれることに、共に仕え、祈り合いたい。


(Mynote)🖋


二〇二四年九月一五日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「私達の感謝について祈祷文における規定は何ですか。」
「主の祈りにおける信仰告白、『国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり(あなたのものだからです)、アァメン』との結びの言葉です。」
天地は神様のものである。神様が自然を創られ、人を生かす為の全てを創られたからである。
主(しゅ)に祈る時は、心から祈る事が大事にある。その心は唯一誠の生ける神様に向いて居なければ成らず、邪教に向いては成らない。この邪教とは、所謂る他の宗教だけを指さず、そのとき自分で作り上げた信念を指す事もある。常に正しい信仰に立ち、誠の神様お一人に向かねば成らない。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第二〇章二二〜三一節)
『詩篇』(第三七篇二三〜四〇節)
この両箇所は、聖霊に守られて、神様に導かれる通りに信仰の道を歩めば、失敗する事なく、必ず救われ、その子孫まで祝福に与る土台を得る事を教える。
「人の歩みは主に依って定められる」
これは信仰の道を歩む事を指し、邪な、人の世間の誘惑に負けた上での道を指さない。
「主に祝福された者は国を継ぎ、主に呪われた者は断ち滅ぼされる」
この通りに在る。
主は、信仰の道を歩む者のその歩みを喜ばれる。譬えその人が倒れても、全く打ち伏せられる事は無い。主がその手を助け支えられるからである。
主の道に歩む者がその後年、食物を求めて乞い歩くのを見た事が無い。主がその人の後世までも、ずっととこしえ(永遠)に助け、守るからである。
正しい人(公に正義を行う者)は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。
悪を避けて、善を行え。そうすればその人は、とこしえに(神様がその人に約束した土地・天国として良い)住む事が出来る。
主は公義(信仰に依り公に果たすべ義務)を愛し、その聖徒を見捨てない。正しい者はとこしえに助け守られる。
しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。正しい者は国を継ぎ、とこしえにその国を継ぐ事が出来る。正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。この知恵と公義は、神様からそのとき与えられたものである。
その正しい者の心には神様の掟が在り、その歩みは滑る(失敗する)事が無い。
悪しき者は正しい人を伺い、これを殺そうと図る。主は正しい人を悪しき者の手に委ねられない、また裁かれる時、これ(正しい人・正しい人の言動)を罪に定められる事は無い。
主を待ち望め、その道を守れ(この様に主は全ての人に教える)。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の断ち滅ぼされるのを見るであろう。
私(パウロ)は悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏(丈夫で強いものの喩え)の様に聳え立つのを見た。しかし、私が通り過ぎると、見よ、彼は居なかった。この「香柏・レバノンの木」とは、この世だけの強さ・人から見える強さのみを指して居る。人の間で勝ち誇る強さ(罪の強さ・悪魔の強さ)は、必ず断ち滅ぼされる事を意味する。信仰の道を歩みつつ、その場を通り過ぎた時、この世だけに通じる人の強さ(罪の強さ・悪魔の強さ)は神様の御力に依り討ち滅ぼされる事を意味する。
先ずこの事を、どれだけ本気で(知る程に)信じる事が出来るか?この信仰の強さが問われる。
「私は彼を尋ねたけれども見付からなかった」とは、神様に依り討ち滅ぼされた(悪魔の側に立つ)者達は、この地上で必ず断ち滅ぼされ、その後世に於いても姿を見る事は無い…と言う意味。
全ての人は、全き人(信仰に歩む者)に目を注ぎ、直き人(信仰に於いて正しい公義を行う者)を見よ。穏やかな人には子孫が在り、罪を犯し続ける者は共に滅ぼされ、その悪しき者の子孫は断たれる。
この正しい人の救いは主から出る。主は彼等の悩みの時の避け処である。主は彼等を助け、彼等を解き放ち、彼等を悪しき者共から解き放って救われる。彼等は主に寄り頼むからである(『詩篇』全篇解釈)。
パウロはこの時、必ず災いの待つエルサレムへ行こうとして居た。そこで投獄され、患難が待ち受けて居る事を聖霊から示され知って居た。
その上でパウロは、
「私は自分の行程を走り終え、主イエスから賜った、神の恵みの福音を証(あかし)する任務を果し得さえしたら、この命は自分にとって、少しも惜しいとは思わない。私はいま信じて居る、あなた方の間を歩き回って御国を宣べ伝えたこの私の顔を、皆が今後二度と見る事はあるまい。だから、今日、この日にあなた方に断言しておく。私は、全ての人の血に就いて、何ら責任が無い。神の御旨を皆余すところ無く、あなた方に伝えておいたからである。どうかあなた方自身に気を付け、又、全ての群れに気を配って頂きたい。聖霊は、神が御子(みこ)の血で贖い取られた神の教会を牧させる為に、あなた方をその群れの監督者にお立てになったのである。私が去った後(のち)、狂暴な狼が、あなた方の中に入り込んで来て、容赦無く群れを荒す様になる事を、私は知って居る。又、あなた方自身の中からも、いろいろ曲がった事を言って、弟子達を自分の方に、引っ張り込もうとする者らが起るであろう。だから、目を覚まして居なさい。そして、私が三年の間、夜も昼も涙を以て、あなた方一人一人を絶えず諭して来た事を、忘れないでほしい。今私は、主とその恵みの言(ことば)とに、あなた方を委ねる。御言(みことば)には、あなた方の徳を立て、聖別された全ての人々と共に、御国を継がせる力がある」
と語り、一同共に跪いて祈った。皆の者は、激しく泣き悲しみ、パウロの首を抱いて、幾度も接吻し、もう二度と自分の顔を見る事はあるまいと彼(パウロ)が言ったので、特に心を痛めた。それから皆はパウロを舟まで見送った。
クリスチャン同士の間でも、この様に主の道を曲げ、その道から外れ、邪教の方へ自らを以て誘(いざな)う者達が居る。現代の社会に於いて、それは既に証明されて居る。教派に分かれる上でクリスチャン同士が仲違いし、互いに非難し合い蹂躙して、自ら打ち立てた信念の下(もと)に新たな邪教を作り上げる。だから常に信仰に歩む力を神様に祈り願い、求めねば成らない。人はそれほど強くなく、その心は時に自分の出どころを知らない程に曖昧で、脆いのである。その自分を思い知る上、弱さを認め、信仰に歩み続ける努力を知らねば成らない。その歩む努力(ちから)は、唯一、生ける誠の神様から来る。イエス様の教えに従う事が大事に在る。
信仰の道に歩む時、その瞬間から後世に至る迄、人の目にどう見えて感じられても、その信仰に於いて失敗は無く、悲しみも無い。失敗と悲しみをそれでも思い感じるのは、人の信念・主観に立ち、そこから物事を見計るからだ。このハードルは全ての人にある。信仰に歩み始めた(信仰に生かされる)時からそのハードルを越える事を祈り願い、この世だけで終わる強さに心身を委ねず、永遠の命と平安とを約束する神様の下(もと)に委ねる事が大事にある。


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