ロシアの中でも少数派とされるネイガウス流のテクニックですが、何が目からウロコかと言いますと…

全ての音型が腕や身体の重さだけで弾けてしまうということです。

「そんなの一般的な奏法でも当たり前だ!」と思われる方もいらっしゃると思いますが、これは「重力奏法とは何か?」といった考え方に話が及びます。


音の粒を揃える、音の粒で音楽を処理する、腕の重さを指に伝えて音を作るというのが一般的に解釈されている「重力奏法」ですが、これは結局のところ指自体の力で鍵盤を押さえる事になるため、弾いた後の響きが膨らみません。
そして、耳も音の立ち上がりを聴いてバランスを整えていく練習が必要になります。
指の関節はしっかりと強く鍵盤の底で止まること、打鍵は常に下方向であること、レガートは指を鍵盤からできるだけ離さずに作るというのが、一般的な奏法の大まかな基本です。


それに対しネイガウス流の基本は、手首から前腕の下側に空間を作るように持ち上げ、指の関節は限りなく脱力する代わりに掌を少し固めて支えます。イスは高くして鍵盤に身体がもたれるような態勢を取り、肘も外に振り回したりする事は無く上半身にピタリとくっ付けておきます。
打鍵は常に脇や肘の後ろから、鍵盤に対して斜めに入っていきます。弾いた後の一瞬、指が鍵盤自体の重さに負けて浮き上がってくるぐらい脱力します。この瞬間に、音色が初めて出現するのです。(響き、倍音とも言います)
欲しい音色によって鍵盤の中の狙う深さを変えたり、支えている掌の緊張度合いを調節しながら色彩を操ります。
レガートも、指を離して響きを動かす事で実現できます。(これに関しては、弾いた後の音が動かせる事を証明できる実験もあります)



弾いている時の体感は、とてつもなく楽な状態が基本です。楽器と身体が一体となり、柔らかい発声によるレガートが上半身を介して響き、指自体に対する意識は殆ど無い状態です。

どんなにフォルテで弾こうとも、割れる事なく豊かに膨らむ音色で音量を増やすことができます。

これをして初めて、表現される作品の姿が見えてきます。



◆参考となるのはやはり実演。
是非、youtubeでアルファベット表記にて調べてみてください。

Heinrich Neuhaus (ゲンリヒ・ネイガウス)→映像は少ないですが、小品を弾いているものが2つほど遺されています。昔の録音にも関わらず非常に柔らかく多彩で、詩情と甘美な音色が素晴らしいです。

Vladimir Horowitz (ウラディーミル・ホロヴィッツ)←派手な技巧ばかりが注目されがちですが、なんと言っても音色の多彩さとロマンティシズムが素晴らしいと思います。手首が低い事も多いのですが、長年培った支えが強いからこそです。

Mikhail Pletnev (ミハイル・プレトニョフ)→若い頃は黄金のロシア的音色で演奏していましたが、最近は弱音の世界を極めていますね。イントネーションはただただロシア的、ラフマニノフやホロヴィッツの影響が強いと思います。彼もまた、ネイガウス流の重力奏法で神秘的な世界を作る現代の巨匠です。

Alexander Kobrin (アレクサンダー・コブリン)→ネイガウスの弟子であるレフ・ナウモフに学んだ繊細なピアニストです。現代のロシア人ピアニストは、速く大きな音でガンガン弾く傾向にありますが、彼は真逆。弱音が素晴らしく、芸術性の深い演奏をされます。中村紘子先生が、「こんなロシア人がまだモスクワにいたのね」と仰ったそうです。

Ilya Itin (イリヤ・イーティン)→無駄な動きが一切無く、ラフマニノフのような音色を持つピアニストです。彼もレフ・ナウモフ門下の一人ですが、重力奏法による豊かなサウンドが素晴らしいです。

Alexei Sultanov (アレクセイ・スルタノフ)→激情が迸るピアニスト。小柄な身体からは考えられないエネルギー、色彩感を持っています。多少フォルテが割れる事もありますが、それも芸術の内でしょう。彼もまたレフ・ナウモフの門下です。

Daniil Trifonov (ダニール・トリフォノフ)→レフ・ナウモフ門下ではありませんが、身体の使い方はまさにネイガウス流そのもの。若手トップクラスなのはやはり多彩な音色ありきです。そして、近年稀に見る弱音基調でロマンティックな演奏スタイルです。

Ivo Pogorelich (イーヴォ・ポゴレリチ)←彼はリストの系譜にあたるピアニストですが、腕や身体の使い方に関しては非常にネイガウス流に共通する部分が多いと思います。打鍵が物凄く深いため、重厚で巨大な音楽を表現しています。

Dang Thai Son (ダン・タイ・ソン)←彼も基本はネイガウス流に近く、ベトナム人でありながらもロシアに根差した伝統が非常に強いです。スルタノフと同じく小柄な身体にも関わらず、豊かなサウンドを繰り広げるピアニストです。

Lang Lang (ラン・ラン)←エンターテイナー的な見方をされる事も多いですが、持ち音がトリフォノフに似ていて繊細且つ多彩です。彼もネイガウス流の腕の使い方をしています。

Martha Argerich (マルタ・アルゲリッチ)←言わずと知れたアルゼンチン女流ピアニストの巨匠ですが、彼女もロシアのピアニズムを幼少期から体得したピアニストです。



ここに挙げたピアニストは代表的な人たちで、往年の演奏家による伝統やスタイルを継承しています。音楽的には皆それぞれ驚くほど違いますし僕の好みもありますが、今回のテーマである「重力奏法」を実現している事に変わりないピアニストたちです。