※内容を一部編集しました。2023-10-20
福島県信夫郡矢野目の中島家
私の鉄砲は中島庄右衛門家から出たものであるが、この中島庄右衛門は現在第19代で現在も続く旧家である。戊辰戦争では東北の幕府残党に与した様で当時の言い伝えが父の代まで残っている。明治維新後は民生委員として地域の拠り所として地域貢献に尽力したという。本家は現在も奉仕民生委員をしている。
私の祖母は第16代中島※庄右衛門徳次郎の二男の長女で、祖母の弟が早世したため、二男家の家督庶務をこなしていたそうだ。祖母の長男が私の父で、福島から鉄炮の台木を1969年に鎌倉時代来の脇差と弓矢と一緒に貰ってきた人である。
※明治39年4月1日の叙勲では陸軍輜重輸卒「中嶋」徳次郎を明治勲章ノ勲八等二叙シ白色桐葉章ヲ授与とある。(兵役に努めると叙勲された勲章)とあり誤記なのかこれが本姓なのかは不明。
中島庄右衛門家の所在地は江戸時代から中屋敷と呼ばれており、中屋敷即ち中島家として地元から尊敬されていたという(「ふる里矢野目の歴史と伝承」(久間木忠雄著)1974より)この中島家の当主が庄右衛門を名乗りだしたのは1650年頃の上杉配下の頃である。残念ながら何故中島や庄右衛門を名乗る様になったかは今回の旅では定かにはならなかった。しかし話を整理すると江戸の初期(上杉の転封の頃)には帰農しており、なぜ1780-1830年代に信夫で作られた火縄銃が家に伝わっているかは残念ながらわからなかった。
本家では槍や薙刀、太刀、脇差などを所蔵していたそうで、私の父が昭和40年代に遊びに行った際には脇差だけでも大変な量があったそうだ。太刀などの柄は残っていたが、火縄銃同様に供出で金属部は欠落していたという。そのうち薙刀はご先祖が有名な古戦で使用したものであったが、いわくつきで当時はこの薙刀が行く家には不幸があると言われていた。
江戸期の繁栄を映す茅葺の屋敷。父や大叔父曰く四方には4-5メートル程の幅のお濠があったという、おそらく手前に見える葦かガマの葉がそのお濠から生えているのだろう。建物自体は3階建てほどの屋根の高さが二階建てになっており、二階はかなり広々として天井の高い蚕部屋だったという。お濠は確かに明治40年代の地図に(コの字)に書かれている事から、おそらく陣屋跡に屋敷を構えたのだろう。
福島のご先祖と江戸時代の生活
福島県信夫郡矢野目域は上杉から天領に召し上げられ、その後は天領と藩領期を何度も繰り返している。
- 1598年に上杉支配
- 1664年に天領
- 1679年に本多氏
- 1682年に天領
- 1686年に堀田氏
- 1700年に天領
- 1702年に板倉藩
- 1775年に仙台藩預かり
- 1788年に天領
- 1801年に木下家(秀吉妹の家)
中島庄右衛門が文書に登場するのは1726年の五代目中島庄右衛門の死亡時点からであるから板倉藩政時代には名の知れた名家になっていたようだ。何度も天領地になっている事や西国の飛び地になっている事から、幕府の政策に活用された地域であったそうだ。地元の豪農や天領下の肝煎、藩領下庄屋名士がかなり力を持っていたようで、外様の領主が移入し、仕事を怠ると幕府に直訴した逸話が残るなど、飛び地領にされると厄介な土地であった可能性がある。代官が度々逃げ出したという逸話もある。(ふる里矢野目の歴史と伝承1974)瀬上陣屋に代官を置いた足守藩木下家は幕府に何度も飛び地領撤回を申し入れている事からもその状況がうかがえる。
江戸後期にはその勢力をほぼ信夫郡全域に広げ、小作人100人以上を擁する大豪農で、かつては瀬上を所領した同じく元上杉家臣の小田切内膳安芸守の子孫の蒲倉一族を含め地元名主との親族関係を作り戦前までは、影響力を持っていたそうだ。戊辰戦争時には、足守藩は初めは佐幕派で後に新政府側につくが、この瀬上陣屋は仙台藩烏組が本拠としている事を考えると瀬上陣屋の領民(私の御先祖達)は足守藩が新政府に翻ってから代官をどの様に扱っていたのだろうか、岡山の飛地領の代官からすれば、さぞ心細い思いだっただろう。
瀬上の戊辰戦争時の話によると福島藩域(現在の福島市南側)は藩士が領民を見捨てたらしく、農民の暴動が起きたそうだ。仙台藩兵が福島城に鎮圧に行った所二名が殺害されている。その後瀬上に撤退したと言う。おそらく瀬上陣屋配下の領民は暴動を起こしていなかった故にそちらへ逃げたのだろう。瀬上の代官は世襲で領民との関係は良好だったとされている。足守藩の矢野目の中島家を含め名主はほぼ全員親戚であるから知るのが怖いが、資料が残っていないと言う。明治初期に産まれたであろう親族が若松の武士を讃える歌を歌っている事を考えると何かしらの活動をしていたのだろうが、その事は本家には伝わっていなかった。
昭和四年に撮られた中島家の家族写真。真ん中が徳次郎その右隣が私の曽祖父母
戦後米国と占領下政府で行われた農地改正(豪農解体)の影響で、最盛期には中谷地から西荒田、桜内まで広げた農耕地は殆どが接収、払い下げられ、現在の矢野目の一部に規模が縮小した。(ふる里矢野目の歴史と伝承1974)
百人以上の小作農を管理したとすれば、写真の屋敷の屋根がボロボロなのは戦後の豪農解体の苦難を現しているのかもしれない。
旗が立っている土地は郷土史に紹介されている一族の旧耕作地の所在
父の記憶通り、お濠を超えて、梅のアーチを抜けていくと現在では3階程に匹敵する高さの茅葺き屋根の屋敷の写真に残っていた。車が良い比較になる。手前に見える祠現在も屋敷内に安置されていた。
現在この建物があった所には近代住宅が立ち並び、お濠は道路になっている。
参考文献
ふる里矢野目の歴史と伝承 久間木忠雄著 1974年



