戒厳令前夜の台湾 からの続きです。

 

 

第二次大戦後の1945年に突如台湾に流入してきた外国語である北京語ができないことを理由に、そして当時の行政長官公署秘書官の葛敬恩は「台湾は正当な中国文化の薫陶を受けていない『化外の地』で、台湾人は二等国民である」と述べ、日本式の奴隷教育が染み込んだ台湾人は訓練を受けさせなければ使いものにならないと公言し、台湾の人々を社会の重要ポストから次々と排除していきました。東大京大出の台湾エリートは特に、日本の帝国主義思想を持つ不逞分子として、目の敵にされていました。

 

 

また、当時経済状況が悪化していた中国に台湾から大量に米や砂糖などの物資を送っていたため(台湾の砂糖の値段を低く抑えて政府が買い占め、海外で高値で売って政府が利鞘を稼いだりして)、台湾で物資が不足し、台湾経済は大きな打撃を受けました。更には中国のインフレに影響を受け、台湾はハイパーインフレに見舞われ、本省人の生活はますます困窮していきました。

 

 

1947年2月27日

 

 

専売局の取締官たちが、台北市で闇タバコを売っていた女性を捕まえ、タバコを没収しようとしました。女性は林江邁といい、当時40歳。夫に先立たれ、女手一つで一男一女を養っていました。彼女は取締官に跪いて許しを請いましたが、タバコと所持金をすべて取り上げられた上に、取締官に拳銃の柄で頭を殴打され、林さんは頭から血を吹いてその場に倒れてしまいました。その様子を見ていた人々が取締官たちを非難すると、取締官は逃げようとしますが、憤慨した市民に追われ、取締官は拳銃を抜いて発砲しました。その銃弾は陳文渓青年に命中し、彼は命を落としました。

 

 

翌28日、これをきっかけに本省人による市庁舎への抗議デモが行われました。デモ隊は、専売局台北支局、専売局本局、そして行政長官公署前の広場に向かいました。時の行政長官 陳儀は、行政長官公署の屋上に軍隊を出し、屋上から群衆に機関銃掃射を浴びせました。機銃掃射を受けてバタバタと倒れる血まみれの人々を見て、本省人の外省人に対する怒りは更に爆発し、専売局を破壊したり、専売品であったタバコを倉庫から運び出して道の真ん中で火をつけて燃やしたり、外省人を殴打したりしました。

 

 

陳儀は、「台湾人が独立を企てた反逆行為をしている」「台湾人が組織的な反乱を起こしている」などと密かに蒋介石に電報を打ち、中国からの援軍の緊急派遣を要請しました。それに対し、蒋介石から陳儀への電文は"Kill them all, keep it secret!(秘密裏に台湾人を皆殺しにせよ)"というものでした。

 

 

そして3月8日、中国からの援軍が基隆港と高雄港に到着すると、国民政府による反撃が始まりました。多くの本省人が逮捕、投獄、拷問の上、市中引き回しの上銃殺されたり、針金を手に刺し込んで本省人の人々を縛って束ね、彼らを川沿いや海沿いに立たせて機銃掃射を浴びせ、そのまま海や川に沈めるなど、残酷極まりない方法で台湾の人々を次々と虐殺しました。二・二八事件で犠牲になった人の数は数千人から10万人まで様々な説があり、台湾の行政院はその数を1万8000〜2万8000人と推定していますが、正確な数字はわかりません。なぜなら、この時行方不明になったきり、遺体も何の消息もないままの人たちも大勢いるからです。これが所謂二・二八事件です。

 

 

1949年には戒厳令が敷かれ、国民政府に反抗する者、台湾独立を訴える者、共産党に共鳴する者は次々と捕らえられ、拷問の上残虐な方法で殺害・処刑されるか、緑島などの島流しにされ長期間服役させられました。この戒厳令は1987年まで38年間続き、例え二・二八事件で生き残ることができたとしても、人々は白色テロの恐怖に怯えながら生きなければなりませんでした。