みなさんは台湾が1949年から1987年まで戒厳令下にあったことをご存じでしょうか?

 

 

あんなに明るく親切で陽気で情熱的な台湾の人々が、わりと最近まで、「白色テロ」と呼ばれる国民党による政治的弾圧の下、我々の想像を絶するほどの恐怖に長らく曝され続けていたなんて、とても信じられません。

 

 

日本の第二次世界大戦敗北により、1895年から1945年まで50年に亘って続いた日本の台湾統治は終わりを迎えました。清国(中国、とりわけ福建や広東)にルーツを持つ台湾の人たち*は、ようやく日本による支配から解放され、台湾の祖国光復(復帰)に胸を躍らせていました。これでやっと自らの手で台湾を統治できるようになるのか、蒋介石率いる国民政府がいずれ台湾に入ってくるだろうけれど、ルーツが同じ民族なのだから、少なくとも支配者・非支配者の関係になる事だけはあるまいと期待に胸を膨らませていたのです。そして多くの人々が、台湾に上陸してくる国民党軍を一目見よう、歓迎しようと、台湾北部の基隆港に駆けつけたのでした。

 

 

ところが…

 

 

基隆港に上陸してきた国民政府軍は、まるで避難民の如く黒光りする布団や金盥を担ぎ、ボロボロの軍服を着て、銃の代わりに唐傘を持ち、軍靴どころか草鞋を履いている兵士もいれば、鍋や七輪を竹籠に入れ、裸足のまま天秤棒を担いでいる兵士もいて、それまで揃いの軍服を着て歩武堂々と行進する、軍容整然とした日本軍の姿を見慣れていた台湾の人々にとって、それは異様な光景でした。

 

 

そして国民政府の軍隊と役人が台湾へやって来てから4, 5ヵ月も経たないうちに、汚職、不正、略奪、差別が公然と罷り通るようになり、台湾は急激な大インフレに襲われます。当時の台湾島民のうち、漢民族系の人々の母国語は主に台湾語(閩南語)や客家語であり、原住民と呼ばれる人々にはそれぞれの種族の言語があり、日本の同化政策の下に日本語教育を受けた人たちは日本語を習得していましたが、中国大陸の北京語は彼らにとっては完全なる外国語でしかありませんでした。国民政府は、台湾の光復(祖国復帰)からわずか一年で完全に日本語を禁止し、それに続いて台湾語も禁止しました。わずか一年で外国語である北京語を完全に習得できるはずがないにもかかわらず、大陸から渡ってきた外省人**は、北京語ができないことを理由に本省人***を社会の主要ポストから次々と排除していきます。日本統治時代(1895-1945)、新聞や学校から漢文が完全に廃止されたのは1937年のことで、日本が42年かけて完全に言語を日本語に移行していったのに対し、国民政府のやり方はあまりにひどいものでした。(私は日本の帝国主義は一切肯定していません。)そして1944年時点で台湾人学童の就学率が70%を超えていたことからも明らかなように、教育程度の高い本省人が、文盲で無学の者が多かった外省人(特に国共内戦に敗れて台湾に逃げ込んできた一般兵)に支配され搾取されるという、矛盾と期待を大いに裏切られる構図に陥ってしまいました。当時台湾に来て初めて水道を見た外省人が、これはすごいと金物屋に蛇口を買い求め、家の壁に蛇口にねじ込んでみたものの、水が出ないじゃないかと金物屋を怒鳴りつけたというエピソードは有名です。

 

 

そしてとうとう、台湾の人々の怨嗟が爆発する事件が起こりました。二・二八事件です。

 

 

 

 

 

*台湾には、中国大陸から漢民族が渡ってくるずっと以前から、マレー・ポリネシア系の原住民と呼ばれる人々が住んでいました。タイヤル族、ブヌン族、ツォウ族、パイワン族など、政府が認定している種族以外にも複数あり、それぞれの言語と習慣を持っています。本省人は、漢民族と原住民との混血であって、中国人とは民族学的に異なるという学説を唱えている学者もいます。

 

**外省人: 終戦後(祖国光復に際して)国民政府と共に中国大陸から台湾に渡ってきた人

 

***本省人: 終戦以前から台湾に住んでいた人