🧵この記事はきっかけ(1)からの連続シリーズです

 

 

解放感のある自由で静かな夜を過ごした翌日は、日中の青々とした日月潭を楽しみました。日月潭滞在中はこの上ない晴天に恵まれ、湖面は太陽を反射してきらきら光っていて、風は台湾南部らしく温暖で湿っていてとても柔らかで、空と湖はペンキで塗ったようにわざとらしい程青かったです。当時の写真は一枚も手元に残っていませんが、日月潭があまりに美しかったので、帰国してからしばらく会社のパソコンのデスクトップ画像に日月潭で撮った写真を使っていたので、よく覚えています。

 

 

日月潭をボートの上や山頂から眺めたり、南投県の妖怪村や地元の小さな廟に立ち寄ったりして、その日もあっという間に過ぎていき、サイの運転で台北に戻りました。

 

 

サイの実家に戻り、いつもの如くソファでくつろいでいると(←いや人ん家😂)、サイとサイのお父さんが私のところにきて、サイはこれから日本に行くのだと言ってきました。

「え、旅行?」

と聞くと、住む目的で行くのだと言います。一年語学留学する形でこれから日本に住む、もうその段取りもつけてあり、一ヶ月後には日本に行くと言うのです。



ェェェェエエエエエエーーーー!!!

 

 

これは私へのサプライズだったようで、私の日本での就職が決まった時から考えて、計画をこっそり進めてくれていたのでした。

 

 

しかし女というのは現実的な生き物で(笑)、私はもうすぐサイと日本で一緒にいられる事をもちろんものすごく喜んだのですが、同時に、サイが就職せず語学留学をするという事に若干不安を抱いていました。その時はお互い25歳になっていました。当時院卒の私が就活をしていて感じたのは、あくまで「当時の」「日本の」場合はですが、院生は一部の専門領域を除いては、一般企業への就職は学部生より不利というか、色物扱いを受けている印象がありました。「台湾の大学院卒だからじゃない?」と思われるかもしれませんが、私の場合はもちろんそれもあると思いますが、今の職場にも旧帝国大学の院卒者は大勢いますが、同じような印象を受けている人は多いと思います。理系の領域で研究職などでしたら院生の方がマッチング性は高いと思いますが、一般企業となるとより柔軟性のありそうな学部生の方が好まれるような、そんな印象でした。卒業後の方向性をある程度決めて、それに見合う専門性を時間をかけてでも身に付けるか、若さを売りにするか、当時の市場はそんな感じでした。とにかく当時は、大学を卒業してたった2, 3年くらいの差で受ける扱いがだいぶ違うものだなと、見えない社会の壁のようなものを感じていました。

 

 

私はサイには初級の日本語までしか教えていませんでしたが、サイは語学のセンスがあると感じていました。私も英語と中国語はそれなりには勉強してきましたし、外国語の指導経験は7年あるので、生徒さんと接していれば語学センスの良し悪しはすぐにわかります。たぶんわざわざ留学までしなくても、私もいるし、サイだったら普通に独学でも上達すると思いました。

 

 

留学せずに就職して、できるだけ早くキャリアを積み始める方がいいんじゃないかと内心思いましたが、私自身がそうだったように、若いうちに一度留学をしておくのは人生の宝物になるかもしれない。何より、まさかサイと日本で長期一緒にいられるなんて思っておらず、それは単純にとても嬉しかったので、私は自分の不安は口にせず、サイのサプライズを喜んで受け止めたのでした。

 

 

つづく