アセチルコリンの発見 | きくな湯田眼科-院長のブログ

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横浜市港北区菊名にある『きくな湯田眼科』

Otto Loewi (オットーレーヴィ 1873-1961) はドイツのフランクフルトで裕福なワイン商であったJakob Loewiと彼の2人目の妻 Anna Willstädter の長男として生まれました。学校時代は物理や数学より人文科学が得意な青年で、美術史の研究家になることを希望していました。



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しかし、現実的な問題から両親は医師になることを望み、1891年にレーヴィはストランスブルグ大学の医学部に進学しました。ここでも最初の2年間は医学的な講義を好まず、哲学の講義に出席していました。1893年にかろうじて最初の医学試験に合格できた彼は、その後代謝学のパイオニアであった Bernhard Naunyn(彼の弟子には膵臓と糖尿病の関係を見出したAdolph Magnus-Levy と Oscar Minkowskiがいます)の医学講義を聞く機会に恵まれ、初めて医学に興味を持つようになりました。それでも彼の卒業論文は医学ではなく、薬理学の分野でした(カエルの心臓の分離法について)。



1896年にストランス大学を卒業後、分析無機化学を専攻し、さらに数ヶ月生理化学を勉強しました。1897年から1898年まではフランクフルト市立病院の内科でCarl von Noorden の助手として働き、結核、肺炎の治療に関わりました。この2年間が彼の臨床医として生きた唯一の期間となりました。重症患者を扱う内科病棟でレーヴィは多数の患者の死を目にすることとなり、臨床医となることに希望を見出せなくなりました。こうしてレーヴィは臨床医になることをすっかり諦め、基礎研究に進むことを決断し、以後生涯に渡って、二度と患者を診ることはありませんでした。



1898年から1904年まで、レーヴィはマルブルグ大学の薬理学部門で Hans Horst Meyer の助手として働きました。1902年から1903年にかけて数ヶ月間英国のStarling’s laboratoryに留学をする機会に恵まれ、この時ケンブリッジ大学を訪問しガスケル、ラングレイ、エリオット、デールなど多数の優秀な生理学者にふれあう機会を得ました。この時の経験が彼のその後の研究の方向を決めることとなりました。



1905年にメイヤーに連れられビエナ大学に移り、1907年に同大学の薬理学助教授となり、1909年にはオーストリアのグラッツ大学の薬理学教授に迎入れられました。その後他の有名な大学から誘いがありましたが全て断り、この大学で1938年まで教授職を全うしました。



薬理学者としてレーヴィはタンパク代謝、糖代謝、腎臓の生理などで数々の業績を上げていますが、最も有名なのが神経伝達物質の研究です(英国留学での経験が役立っています)。



1910年にコカインがアドレナリン作動性神経の感受性を上げることを見出しました。この作用は特異的で、現在でもホルネル症候群の診断等でコカインは用いられています。



1912年に様々な薬物が心臓の迷走神経刺激に作用することを報告し、特にCaイオンの効果を指摘しました。

1913年から数年間の一連の論文で、ジギタリスの心筋に与える効果を解析し、ジギタリスの効果は心筋のCaイオンに対する感受性を高めることによることを示しました。




以前英国ケンブリッジ大学生理学教授エリオットが神経化学伝達説を唱えたことを記載しましたが、1920年までは電気伝達説が有力で、化学伝達説を証明するものはありませんでした。英国留学でエリオットらに出会ったレーヴィは化学伝達説が正しいと思うようになり、これを何とか証明したいと考えていました。そこで有名な夢の話が出てきます。以下はレーヴィの自伝からです。



”1921年、復活祭の日曜日の夜に私は目が覚めて部屋の明かりをつけ、小さな紙切れにちょっとしたメモを書いた。それから私は再び眠りについた。朝6時に目を覚まし、夜中に何か重要なことを書いたのを思い出したが、そのメモに何が書いてあるのか解読できなかった。次の夜中も3時に目が覚め、その内容を思い出した。これは17年前に私が考えた化学伝達説が正しいかどうかを決める実験のデザインだった。この時には失敗しなかった。すぐに起きて研究室に行き、夢のデザインに従いカエルの心臓に関する単純な実験を行った。最終的に5時には神経インパルスが化学的に伝達されることを証明したのである。”



このようにして夢で促された実験が次のようなもので、これで神経伝達する化学物質が証明されたのです。(既に似たような実験はWalter Dixonが行っていましたが、ディクソンはその物質が何であるのかを証明することはできませんでした)




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レーヴィはこの伝達物質をVagusstoff (迷走神経物質) と名付け1921年にPflügers Archivと言う雑誌に4ページの論文として報告しました。既に彼はこの物質がコリンのエステルに違いないと考えていました。これが最終的にアセチルコリンであることを証明したのは、Henry Daleです。



Henry Hallett Dale (1875-1868) はスタッフォードの製陶業者Charles James Daleの2番目の子供として誕生しました。1894年にケンブリッジ大学トリニティーカレッジに進学、1898年に修士課程を修了、ラングレイの研究室で2年間の神経解剖学の卒後研修を終えた後、1900年からロンドンのSt. Bartholomew's Hospitalで臨床研究を行い1903年に医学士となりました。

すぐにErnest H. Starlingの研究室で働く機会を得、よりよい給与を求めて(結婚資金を貯めるために)、1904年にはスターリングの紹介でWellcome Physiological Research Laboratoriesで働くこととなり、1年半後には管理職になりました。



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この研究所でデールは麦角ergotの解明を命じられました。麦角はライ麦につく菌で、紀元前600年の昔から分娩促進剤として知られていましたが、副作用が強く、中世には疫病の原因となったこともありました。その成分は不明でしたが、デールが研究に着いた頃には大して注目されておらず、彼はどちらかというと嫌々ながらその仕事に就いたのでした。



デールは麦角から活性物質としてエルゴトキシンを抽出し、ネコを用いてこの物質を含めた麦角抽出物の血圧に与える効果を研究しました。研究所からは、さらにアドレナリンの効果を見ることが付け加えられました。ここでもし、アドレナリンの効果を見る機会を得なければ、彼は麦角のつまらない研究をすぐに止めていたと思われます。



この追加された研究で、デールはアドレナリンの効果を麦角が特異的に抑制することを知ったのです。



彼はこの研究の過程でアドレナリンと交感神経刺激とが量的に同じ反応を示さないことに気付きました。アドレナリンの作用の方が麦角により強く抑制されたのです。こうして彼は一つの結論を得ました。エリオットの唱えた神経化学伝達説は原理的には正しいが、伝達物質はアドレナリンに類似した別の物質であると。


こうしてデールはさらに神経筋接合部に的を絞って神経伝達物質の解析に乗り出すこととしました(この的を絞ったことが重要なことでした)。



1906年米国のPublic Health ServiceのReid Hunt と Rene Taveauはコリン誘導体の研究でコリンの人工的アセチル化物質が信じられないほど強い生理活性を持つことを報告しました。それはアドレナリンが血圧上昇を起こすより数百倍強く血圧を下げる効果があることを示したのです。彼らはその効果は心拍を抑制することによるものと推測しました。



このことを踏まえてデールは1914年に”コリンエステルの活性”についての論文を発表します。これは彼が神経伝達物質としてのアセチルコリンを見出す7年前になります。この間彼はコリンエステルの分析を積極的に行ったものと思われます。



ここでもまた麦角が彼の味方をしました。ある時送られた麦角抽出物をネコに注射したところ、心拍が強く抑制され、そのネコは死んでしまったのです。彼はそれがたまたま起こった事故であろうと考えました。しかし、繰り返し実験することにより、そこには極めて不安定な未知の物質があることが確認されたのです。



麦角に含まれる未知の物質はムスカリンに類似した作用を示しました。彼はこの物質がハントらが発見したアセチルコリンと類似していることに気付き、これらを比較してみました。すると同じ物質であることが強く示唆されたのです。しかし、アセチルコリンは合成されたもので、それが生体にあることは信じられないことでした。また、彼はどうして麦角にアセチルコリンが混入したのか全く理解に苦しみました。(恐らく混入した細菌が合成したものと考えられます)



こうしてデールはアセチルコリンの作用の分析にかかりました。そしてついにアセチルコリンにはムスカリン類似作用とニコチン類似作用があることを導き出しました。



ムスカリ様作用はアトロピンで抑制されることを認め、末梢神経に見られること、それが副交感刺激による効果と同じであること、脳や脊髄を破壊する多量のニコチンに対して影響を受けないことを示しました。



ニコチン様作用の観察にはアトロピンを用い、ムスカリン様作用をブロックし、アセチルコリンを投与することで行いました。すると、ラングレイが認めたニコチンに対する反応部位の図に一致したのです。



また、デールは動物にアセチルコリンの効果を発現するには極めて多量のアセチルコリンの投与が必要なことを認め、動物体内のエステラーゼがエステルを分解するものと考えました。(素晴らしいですね!今日判明していることの殆どを、デールは解明してしまったのです)



第一次世界大戦の最中にデールはレーヴィの前述の実験のことを知りました。デールはレーヴィのVagusstoffが極めてアセチルコリンに類似していることに気付きました。しかし、この時点ではアセチルコリンは合成薬でしたから、それが神経伝達物質というのは躊躇されるのでした。



デールは1910年に麦角から細菌による副産物としてヒスタミンを発見しており、このヒスタミンがアレルギー反応を引き起こすトリガーになることを示していました。ある時彼はヒスタミンの体内分布を調べているうちに、ウマの脾臓のアルコール抽出物にコリン作用を示す物質があることに気付きました。調べる内にこれがアセチルコリンそのものであることが分かったのです。こうして偶然の出来事から、ついにアセチルコリンが生体内で証明されたのです。しかし、こうして振り返ると嫌々始めた麦角の研究から、伝達物質アセチルコリンの確定に至ったのは、デールの絶え間ない探求心と努力があったからこそと言えるでしょう。デールのこの姿勢は大いに学びたいですね。



これらの研究によりデールとレーヴィはノーベル賞を受賞しました。



その後レーヴィはナチスのオーストリア侵攻により、グラッツ大学を辞めさせられ、長男と共に監獄に送られることになりました。この時、妻と他の子供はイタリアに行っており、逮捕を免れました。彼はノーベル賞の賞金を全てナチスに提供することを申し出て、自由の身となり、米国に亡命し、ニュウヨーク大学の薬理学教授となりました。この時デールはレーヴィを援助し、スターリング研究所で初めて出会った二人の友情は終生続きました。なお、レーヴィの家族は全員米国で無事再会を果たしました。