東京都は3月24日、認知症対策推進会議の下部組織である「若年性認知症支援部会」(部会長=斎藤正彦・医療法人社団翠会和光病院院長)の報告書を公表した。若年性認知症は、失業で社会的な居場所と生活基盤を同時に失うなど、高齢者の認知症と比べて課題が多いが、その理解と支援体制が不十分と報告している。

 報告書ではまず、若年性認知症の具体的な事例を紹介。就業中の突然の発症、適切な医療機関の発見の困難、多額の医療費負担や失業で自己破産の危機に直面など、若年性認知症の本人および家族の現実を報告した。

 その上で、多分野にまたがる若年性認知症の支援制度が十分に活用されておらず、高齢者と比べて発症者が少ないことから、支援体制が不十分と指摘。絶対数が少ないため、既存サービスの活用を基本としつつも、若年性認知症の本人と家族を「公的支援」「医療支援」「介護支援」「職場を含む社会的支援」「経済的支援」の5つに整理して具体的な支援策を提案している。

 公的支援については、自治体の情報提供の強化と相談窓口の対応力向上などを挙げた。若年性認知症の相談者に対し、区市町村の認知症支援担当課の8割以上が、利用可能な障害福祉サービスを十分に説明していない実態などがあるためで、斎藤部会長は同日の部会で、「いつでも信頼できる情報を包括的に得られる仕組みが必要」とした。

 医療支援では、都内に医療機関が多数存在するものの、情報不足で十分な医療が受けられないとする声が多いと指摘。早期や重症などの症状に合わせた適切な情報提供や、医療機関同士の連携促進が必要とした。介護支援でも適切な介護施設が見つからないとする声が多いが、「若年性認知症を受け入れない施設はほとんどない」(斎藤部会長)という。ただ、若年性認知症の知見は一部の施設職員に限定されるため、ノウハウの共有が必要とした。

 職場を含む社会的支援では、就労継続支援が現実的な支援策との考えを提示。産業医と連携するなどして、企業内で早期に支援する体制を確立することが重要とした。経済的支援では、既存の支援策の活用を促進するため、企業や区市町村の相談窓口への周知を徹底するとともに、団体信用生命保険の高度障害認定基準の見直しの必要性を指摘している。

 都は報告書を受け、中でも経済的困窮が深刻な問題であることから、まずは就労継続支援の一環として、「来年度にも医師会における産業医の研修制度で若年性認知症の周知を促すよう働き掛ける」(福祉保健局高齢社会対策部在宅支援課の松山祐一課長)方針だ。


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 「生方の乱」は、とんだ空騒ぎに終わった。民主党の小沢一郎幹事長(67)は23日、小沢氏ら執行部を批判して副幹事長職の解任通告を受けていた生方幸夫衆院議員(62)と国会内で会談し「もう一度、一緒にやってくれないか」と急転、解任方針を撤回。生方氏は続投を了承した。世論の批判を踏まえての判断とみられるが、騒いだ割には単なる“元サヤ”。小沢氏の威信低下が浮き彫りになり、今後の鳩山政権内の力関係にも微妙な影響を与えそうだ。

 この1週間の大騒ぎは、一体何だったのか…。小沢氏はこの日午後、国会内に生方氏を呼び出して急きょ会談。「もう一度一緒にやってもらえないか。副幹事長として私を補佐してほしい」と解任方針を撤回して呼びかけると、生方氏も「分かりました」と応じたという。

 高嶋良充筆頭副幹事長(69)ら党執行部による生方氏の解任案を一度は了承していたはずの小沢氏が、翻意した理由は? 夕方の記者会見で聞かれた小沢氏は、淡々とした表情で答えた。「参議院選挙に向けて党の団結と協力が大事な時。『生方君もみんなと仲良く、本来の副幹事長の職務に全力を挙げてくれ』と申し上げた」

 党は本来、昼に役員会と常任幹事会を国会内で開き、生方氏の解任を決める予定だった。「処分」ではなく「人事異動」の形をとり、生方氏の後任には辻惠衆院議員(61)を充てることにもなっていた。

 ところが、両会議は「小沢氏の日程上の都合」で夕方に延期。気がつけば「続投」に方向転換していた。小沢氏は記者会見で「そんなこと(世論調査)が(解任撤回の)判断になったわけじゃありません」とムッとした表情で言い切ったが、生方氏への対応に、党内外から批判が高まっていたのは事実だ。参院選の準備が本格化する中、解任に踏み切れば「言論封殺」と野党に攻撃の材料を与え、世論の理解も得られないと危惧(きぐ)、強硬姿勢を転換した形。会談に先立ち、鳩山由紀夫首相(63)も生方氏に「大ごとにならないように」と発言していた。

 そもそも発端は、新聞のインタビューで生方氏が展開した小沢氏批判。18日、高嶋氏から辞表提出を求められたが拒否し、執行部が解任を決めた。それでも生方氏は街頭演説やテレビ番組での主張をやめず「乱」は拡大した。

 政治とカネの問題、内閣支持率の低下。小沢氏の幹事長辞任を求める世論動向の中、いったん了承した解任を撤回したことで、威信低下が浮き彫りになった。

 また、これで党内が一致結束、というわけでもない。当の生方氏は今後も「おかしいと思ったことは言っていく」と、やる気満々だ。

 生方氏によると、小沢氏との会談で「話したいことがある」と求めたが、小沢氏は「副幹事長だからいつでも話はできるじゃないか。時間がない」として席を立ってしまったという。

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 慶応3(1867)年11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された「近江屋」は今の河原町蛸薬師交差点の近くにあった。京都で一番の繁華街として多くの若者を集める河原町通だが、当時は道も今ほどの広さはなく路地程度。裏は多く寺が並び夜ともなると、ひっそりとしていた。

 当日は、慎太郎が近江屋を訪ね、2人は母屋の2階で火鉢を囲み話し込んでいた。慎太郎が以前住んでいた土佐藩御用達の書店「菊屋」も河原町通沿いにあり、近江屋とは徒歩数分。慎太郎は菊屋に向かい、菊屋近くの土佐藩の谷干城宅をのぞいた後に近江屋を訪ねている。

 午後9時過ぎ、「十津川郷士」を名乗る数人の男が近江屋を訪ねてきた。十津川郷士に知り合いがいることから通したところ、いきなり襲われ、龍馬は翌日未明に死亡。28カ所を切られた慎太郎も17日昼過ぎ、「早く倒幕を実行しなければ敵に逆襲される。同志の奮起を望む」と言い残し、亡くなった。

 今は現場を記した石碑が残るだけだが、雑踏の中で足を止め、カメラに収める若者がいるなど、2人の人気の高さを物語っている。

               ×  ×  ×

 慎太郎は天保9(1838)年、土佐有数の大庄屋の長男として生まれる。武市瑞山らから剣術や学問を習得するが、20歳のとき父が病気で倒れると帰郷し、大庄屋見習いとして農民のために尽力。凶作で困窮する農民に木を切った後の植林の徹底、田畑の開墾、緊急時のための貯蓄などを指導して難局を乗り切る。

 慎太郎は庄屋見習い時代の経験から、「民衆の安定した生活があってこその国」と考えていた。そのため人の能力を結集し、諸外国との対等関係を築くだけの力を持った国づくりを理想としていた。

 文久元(1861)年に土佐勤王党に入り、志士として活動をスタートするが、土佐藩の勤王党への弾圧が始まると脱藩。その後は長州に入り、元治元(1864)年の蛤御門の変、四国連合艦隊の下関攻撃で参加するなど武闘派としての印象が強い。

               ×  ×  ×

 こういった戦いを経て、慎太郎は薩長同盟の必要性をいち早く悟っていく。同年12月には西郷と、翌年の慶応元(1865)年4月には桂小五郎と会談し、同盟実現の可能性を打診。そのほかの両藩の有志とも会合を重ねるなどし、慶応2(1866)年1月、今の同志社大学辺りに(京都市上京区)にあった薩摩藩邸で薩長同盟を成立させた。

 慶応3年6月、京都で薩長に土佐を加えた同盟を締結。7月には、現在の京都大学農学部(京都市左京区)周辺にもあった土佐藩邸内に「陸援隊」を編成。自ら隊長となって新型銃の訓練を行うなど、倒幕の準備を怠らなかった。

 「海」の龍馬に対して「陸」の慎太郎。円山公園内(京都市東山区)に、遠くを見つめる立ち姿の龍馬の横に片ひざを立て、しっかりと前を見据える慎太郎の銅像がある。まさに、この名コンビの関係を的確に表している。

               ×  ×  ×

 慎太郎は、当時としては珍しく笑顔を浮かべた写真を撮影している。武闘派とはいえ実直で誰とでも表裏なく付き合え、西郷隆盛も「節義の士」と評す。さらに弁舌がさわやかで、もめ事を片づける名人だったという。

 八・一八の政変で都落ちした三条実美らのため、度々京都に入っては情報を集めた。近江屋事件前には、公武合体派として三条の政敵で京都の北の外れに隠棲中の岩倉具視を訪ねたさい人間の大きさを知り、三条との和解に尽力もした。

 その岩倉が慎太郎の死を知ったとき、「誰が私の片腕を奪った」と嘆き悲しんだといわれている。

 最後に幕末史に詳しい霊山歴史館の木村幸比古学芸課長に「2人が長生きしていれば」と聞いてみた。木村学芸課長は「龍馬は外国相手の貿易商。慎太郎は総理大臣になっていたかもしれませんね」と答えた。(園田和洋)

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