金沢城 -多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城-

 

 

別名
所在地 石川県金沢市丸の内 
城地種類 平山城
築城年代 天正8年(1580)、天正11年(1583) 
築城者 佐久間盛政、前田利家 
主要城主 佐久間氏、前田氏
文化財史跡区分  
天守の現況・形態 
  
金沢城は天正8年(1580)、加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を織田信長軍の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。

天正11年(1583)、前田利家が加賀に入封して犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を加賀支配の拠点とすべく近世城郭へと改修した。

基本的な縄張を行ったのはキリシタン大名の高山右近といわれる。

天守は慶長7年(1602)の落雷により焼失。

残念ながらその姿については記録がなく不明である。

名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、唐破風付出窓や二重二階の多聞櫓なども、加賀百万石の居城にふさわしい格調の高さと美しさを見せている。

 

 

 

 

 

 

目次   

 

・ 前田利家(1539-1599)

 

○本丸跡

・ 本丸南面の高石垣

 

○二の丸跡

・ 橋爪門・続櫓

・ 五十間長屋・菱櫓

 

○三の丸跡

・ 石川門(重要文化財)

・ 河北門

 

○玉泉院丸跡

・ 玉泉院丸庭園

 

○いもり堀
 

・ 100名城スタンプ


○まとめ

 

 

 

前田利家(1539-1599)
尾張国荒子村荒子城の城主・前田利春の次男として誕生。

15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦の一つ萱津の戦いで初陣を飾った。  

若年の頃は派手で、奇抜な振舞いを好み、武勇にも優れ「槍の又左」と呼ばれていた。  

桶狭間戦の頃は牢人していたが、織田軍の中で参戦し、翌年の美濃攻めの戦功で復帰する。

その後は赤母衣衆の筆頭として従軍、信長の上洛に従う。

33歳のとき、信長の命で荒子城主になる。

信長の北陸戦略に従い、さらに石山本願寺戦にも参戦、武田騎馬軍団を粉砕した長篠の合戦では鉄砲隊を指揮している。

信長の政策により、府中(福井県越前市)を他の武将とともに治め、のち能登一国を領有する。  

本能寺の変後の賎ヶ岳戦では柴田勝家側だったが、優れた洞察力によって前田家を守り、豊臣秀吉を補佐する大名に成長、加賀百万石の礎を築きあげた。

 

 

 

本丸跡

古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賎ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年(1586)頃に天守閣を設けたといわれる。

天守閣は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。

寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。

 

本丸南面の高石垣
辰巳櫓下から申酉櫓下で、自然面を残す粗割石を積み上げた割石積み石垣。

明治時代に上部が取り壊されて現状の姿になったが、もとの高さは約20間(約22メートル)以上ある、城内随一の高石垣であった。





 

 

 

二の丸跡

二の丸は城内中央の郭で、周囲が530メートル。

利家が入城して本丸には藩主とその家族が住み、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸の周辺に藩の重臣たちの邸宅があった。

ところが慶長7年(1602)の天守閣焼失以降しだいに城の中心は二の丸へと移され、藩主の居館として二の丸御殿が整備されていった。

寛永の大火(1631)後、二の丸に「千畳敷」と形容される豪華な御殿が建てられ、藩庁として利用された。

元禄年間の増築で拡充されたが、儀式の場である「表向」、殿様が日常政務を行う「御居間廻り」、妻子や奥女中の生活の場である「奥向」という三つの空間に仕切られていた。

この豪壮な御殿は120年余存続したが、宝暦9年(1759)の城下の大火の類焼で、城内の殆ど全部が焼失した。

その後の再建は二の丸御殿を中心に行われ、明治14年(1881)に焼失するまで、焼失と再建をくり返しながら、金沢城の中核としてその威容を誇っていた。

二の丸の遺構としては、御殿の唐門が金沢市内尾山町にある尾山神社に、能舞台が金沢市内中村町にある中村神社拝殿にそれぞれ移築され現存している。

 

橋爪門・続櫓
橋爪門は二の丸の正門として最も格式の高い門で、高麗門形式の一の門、石垣と二重堀で囲まれた枡形、櫓門の二の門からなる。

現存する石川門、復元された河北門と共に金沢城三御門のひとつで、二の門内部には番所が置かれ枡形は城内最大規模を誇る。

明治14年に焼失したが、平成13年に一の門、平成27年3月に二の門、枡形二重堀は復元された。

続櫓は二の丸の正門である橋爪一の門を見下ろす位置にあり、三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪一の門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、橋爪櫓とも呼ばれていた。

続櫓の中央には、物資を2階へ荷揚げするための大きな吹抜けが造ってあった。

橋爪門も、石川門と同様、かつては枡形であった。

 

 

五十間長屋・菱櫓
菱櫓に続く五十間長屋は、一般的には多聞櫓と呼ばれるもので、武器や什器等の倉庫。

2階へ上がると、太い松の梁等、木組をそのまま見ることができる。 

ここにも2箇所の石落がある。 

多聞櫓の名前の由来は、永禄3年(1580)大和国を平定した松永久秀が多聞山城を築いた事が始まりで、その櫓の内に多聞天(四天王の1つで北の守神)を祀っていたことによるといわれている。

平成13年(2001)に木造復元された。

明治以降の木造城郭建築物としては最大規模。

菱櫓は二の丸の北東隅に配置された3重3階の物見櫓。

高さは17.34メートル。(石垣の高さは11.7メートル)

この位置は大手と搦手を見張る防衛の要であるため、堀に面した壁には石落しが設けられている。

菱櫓はその名の通り鈍角100度、鋭角80度の菱形の建物で、柱もすべて菱形。

二の丸でもっとも高い建物で、千鳥破風の華やかな外観は、天守閣のない金沢城でシンボル的な建物だった。

木型に厚さ1.8ミリの鉛を貼った鉛瓦や、平瓦を貼った目地を白塗漆喰で固めた海鼠壁も、他の城ではあまり見られない、この建物の特徴。

 

 

 

三の丸跡

石川門、河北門の内部の郭を指し利家が入城した後、重臣の居邸が建てられたが、その後これらを城外へ移し、高知番所、物頭番所が置かれた。

高知番所とは、人持組という身分の高い武士が宿直して警備に当った所で、物頭番所は物頭の役をしたものが宿直して警備に当る時に使用した所。 

北側から東側の周囲には藩の初期だけで、直ぐに廃れてしまったという。

北側から東側の周囲には九十間長屋が造られ、弓や筒等が保管してあった。

 

石川門(重要文化財)
宝暦の大火で焼失後、天明8年(1788)再建。

金沢城石川門は三の丸の東端に位置し、城の搦手口になる。

枡形門と呼ばれる構造で、表門とその内側の櫓門、枡形を囲む続櫓および二重櫓で構成された防御性の高い門で、表門の左右には太鼓塀が延びる。  

表門は高麗門と呼ばれる形式で、扉は両開き。

表門を入った右手が櫓門となっており、多聞櫓と呼ばれる櫓は塗籠壁で、南面右手と東面に唐破風屋根の石落としが付いており、南面の門上方部、北面及び西面に連双の武者窓を開けている。  

続櫓は櫓門の西南隅から南へ延び、東に折れて二重櫓につながる一重の渡櫓で、塗籠壁の各面に連双の武者窓を開けている。  

続櫓の東端につながる二重櫓は石川門の中で最も高い建物で、兼六園側から石川門の姿を特徴付ける重要な建物となっている。

下層は入母屋屋根で東面に唐破風屋根の石落としが付いており、上層の屋根も入母屋で東面にその破風を見せている。

また、櫓の平面は菱形になっている。  

石川門を構成するこれら一連の建物は、鉛瓦葺で外壁の白亜の塗籠壁と腰部分の海鼠壁とともに独特の外観を見せている。













 

 

河北門
金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面であり、金沢城の実質的な正門。

枡形型式の城門で、大手筋の要所を防備する重要な門。

石川門と橋爪門と共に金沢城三御門と呼ばれているが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、三御門の中で最初に安永元年(1772)に再建された。

 

 

 

玉泉院丸跡

江戸期には庭園や城郭建造物が存在していた。

 

玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園は、二代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたこがその名の由来とされ、三代目藩主利常が寛永11年(1634)に庭作を始め、その後も歴代藩主によって手を加えられながら廃藩時まで存在していた庭園。

平成27年3月、江戸時代末期の姿をもとに再現され、高低差のある立体的な構成、色紙短冊積石垣をはじめとする意匠性の高い石垣郡などが庭園の特徴となってる。

 

 

 

いもり堀

かつてのいもり堀は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用された。

江戸時代の堀は、幅が広いところで約40メートル、深さが10メートル以上あり、水を湛えていた。

斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣があった。

復元されたいもり堀には、兼六園を経た辰巳用水の水を入れ、往時とほぼ同じ水深にしている。




 

 

100名城スタンプ
設置場所 二の丸案内所、石川門入口案内所
 

 

 

 

【名称】 金沢城公園
【住所】 石川県金沢市丸の内1-1
【電話番号】 076-234-3800
【開園時間】 3月1日~10月15日 7:00~18:00、10月16日~2月末日 8:00~16:30
【入園料】 無料(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門は有料)
【開園日】 年中無休

※ 2015年11月16日時点の情報です


 

 

滞在最終日であまり時間はなかったのですが、まとめてみると行けてなさすぎ!! 

城内マップを片手に進むと効率よく周れたな...

次、行く機会があればしっかり写真残します。

「兼六園」へは2004年に訪れたことがあります。











冬の雪吊りの風景が印象的でした。

写真が残っていないのが残念。

その当時はお城ではなく普通に観光という感じで蟹を食べに行ったんですよね。

その写真は残っていました。

 

 

併せて再び「兼六園」も訪問します。

石川県コンプリート☆☆