日本100名城 59.姫路城<40/100>【二の丸 後編】はコチラ
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目次
三の丸
千姫ぼたん園
喜斎門跡
西の丸
百間廊下(西の丸長局)(重要文化財)
化粧櫓(重要文化財)
カの櫓(重要文化財)
桜門橋
大手門
天守の庭
100名城スタンプ
パンフレット
まとめ
三の丸
往時には3つの御殿が立ち並んでいた区画。
現在三の丸広場と呼ばれている広いスペースの大部分は、「向御屋敷」と呼ばれた藩主の下屋敷(別邸)が建てられていた。
下屋敷は藩主が公務を離れプライベートな時間をくつろいで過ごす別荘。
賓客をもてなす迎賓館的な機能も持っていたものと思われる。
屋敷エリアの東半分(市立動物園入口に近い側)には池泉式の広大な庭園があり、その庭園に面して西側(広場中央付近)に数寄屋造りの御殿が立ち並んでいた。
現在三の丸広場と呼ばれている広いスペースの大部分は、「向御屋敷」と呼ばれた藩主の下屋敷(別邸)が建てられていた。
下屋敷は藩主が公務を離れプライベートな時間をくつろいで過ごす別荘。
賓客をもてなす迎賓館的な機能も持っていたものと思われる。
屋敷エリアの東半分(市立動物園入口に近い側)には池泉式の広大な庭園があり、その庭園に面して西側(広場中央付近)に数寄屋造りの御殿が立ち並んでいた。
「三の丸広場」から見る「天守」
千姫ぼたん園
三の丸(千姫ぼたん園)の石垣の上には櫓・土塀等は現存していないが、古絵図によると、一番南東端には三層櫓が建っていた。
明治時代に陸軍の駐屯地とするためすべての建物類が壊されている。
藩主の日常の住まい兼藩政を執り行う役所にあたるのが上屋敷だが、上屋敷があったのは三の丸の西半分、桜門をくぐると左折して道なりにまっすぐ行った突き当りに広がる、道路から一段高くなったエリア。
現在は「千姫ぼたん園」として、一般公開されており、毎年桜が終わった4月下旬から5月上旬にかけて、約2,000株のぼたんが咲き競う。
ここに立ち並んでいたのが「御居屋敷」、「御居城」または「本城」とも呼ばれる御殿。
「表(政務をつかさどる藩庁と藩主との公式な対面場所)」、「中奥(藩主の日中の御座所)」、「大奥(藩主の寝所および正室、側室の住まい)」の3つの部分から成っており、典型的な江戸時代の城郭御殿の形式を取っていた。
「桜門橋」から見る「内堀」と「三の丸石垣」
喜斎門跡
「東三の丸」エリアにある「喜斎門」は、大手の桜門に対する「搦手」に位置する門。
姫路城の特徴の一つである螺旋状の縄張りは、この場所で一回目の螺旋が終わり、二回目に移る。
門内は東南方を堀で囲われ、西方は「二の丸」に接し、北方は「勢隠」に続いている。
姫路城の特徴の一つである螺旋状の縄張りは、この場所で一回目の螺旋が終わり、二回目に移る。
門へ進入する道は東から来て南に折れている。
門内は東南方を堀で囲われ、西方は「二の丸」に接し、北方は「勢隠」に続いている。
西の丸
「菱の門」をくぐった所から左手の坂道を登っていくと「西の丸跡」。
池田氏に代わり、城主となった本多忠刻と徳川家康の孫・千姫の居館として、千姫の化粧料10万石で元和4年(1618)に増築された。
当時「西の丸」には御殿があったようだが、現在は広い庭園になっている。
姫路城の桜の見所の一つになっている。
池田氏に代わり、城主となった本多忠刻と徳川家康の孫・千姫の居館として、千姫の化粧料10万石で元和4年(1618)に増築された。
当時「西の丸」には御殿があったようだが、現在は広い庭園になっている。
姫路城の桜の見所の一つになっている。
「天守」の建つ天守の建つ場所が「姫山」で、こちらは「鷺山」と呼ばれている。
山を削ると共に、南側に高い石垣を組んで地上げをすることで広い平地を確保し、防御を固めるために北から南西に向けて細長い城壁のような渡櫓で囲んでいる。
百間廊下(西の丸長局)(重要文化財)
「ワの櫓」からスタートして、長さは約300メートル続く長い廊下。
進行方向左側は城外となることから狭間や石落としが多く設けられている。
渡櫓は複雑に何度か折れ曲がり、急な階段が2ヶ所ある。
途中から廊下右側に沿い、千姫に仕えた侍女たちが住んでいた八畳ほどの広さの部屋が並び、長局であったことが伺える。
進行方向左側は城外となることから狭間や石落としが多く設けられている。
渡櫓は複雑に何度か折れ曲がり、急な階段が2ヶ所ある。
途中から廊下右側に沿い、千姫に仕えた侍女たちが住んでいた八畳ほどの広さの部屋が並び、長局であったことが伺える。
化粧櫓(重要文化財)
「百間廊下」から最後に行き着くのが「化粧櫓」。
ここに来るまでの各部屋の床は板張りだが、「化粧櫓」は畳が入れてある。
普段、この畳の部屋は入り口から見るだけだが、姫路城の特別公開日には入る事が出来る。
千姫は一度は豊臣秀頼に嫁ぐが、大阪夏の陣で秀頼と死別したあとは、本多忠刻と再婚して姫路城で約10年間過ごした。
当時は「播磨姫君」と呼ばれていた。(その後、忠刻とも死別したため、江戸城に移り、出家して天樹院と号した)
徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわれる。
ここに来るまでの各部屋の床は板張りだが、「化粧櫓」は畳が入れてある。
普段、この畳の部屋は入り口から見るだけだが、姫路城の特別公開日には入る事が出来る。
千姫は一度は豊臣秀頼に嫁ぐが、大阪夏の陣で秀頼と死別したあとは、本多忠刻と再婚して姫路城で約10年間過ごした。
当時は「播磨姫君」と呼ばれていた。(その後、忠刻とも死別したため、江戸城に移り、出家して天樹院と号した)
徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわれる。
カの櫓(重要文化財)
桜門橋
「大手門(桜門)」の内堀に架かる橋。
幅7メートル、長さ22メートル。
幅7メートル、長さ22メートル。
大手門
橋を渡ってすぐ、今の大手門の位置、そして虎口を越えて180度曲がったところに1つの計3つから構成される堅固な城門があった。
今の大手門は2つ目の門の位置付近に昭和13年再建され、江戸時代の形とは異なる。
控柱に小屋根が乗る、高麗門(扉に雨がかからないように保護のために内側の左右にそれぞれ小さな屋根をつけた門)と呼ばれる格式の高い方式。
大手門裏側には、屋根の端に、五三の桐の家紋の立体瓦が載っている。
天守の庭
入城口横にある「天守の庭」は昭和の天守解体修理のときに掘りだした大天守の礎石が平面展示されている場所。
慶長6年(1601)~慶長14年(1609)の築城以来、総重量6,000トンと言われる天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44センチ傾斜していた。
そこで昭和の解体修理時に天守基礎にはコンクリートの地盤を埋め、そこに柱を立てることにしたため従来の礎石はすべて取り除かれた。
それらの礎石をもとの配置で再現したのが「天守の庭」。
慶長6年(1601)~慶長14年(1609)の築城以来、総重量6,000トンと言われる天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44センチ傾斜していた。
そこで昭和の解体修理時に天守基礎にはコンクリートの地盤を埋め、そこに柱を立てることにしたため従来の礎石はすべて取り除かれた。
それらの礎石をもとの配置で再現したのが「天守の庭」。
100名城スタンプ
パンフレット
【名称】 姫路城
【住所】 兵庫県姫路市本町68
【電話】 079-285-1146
【開城時間】 9月1日~4月26日 9:00~17:00(入城は16:00まで)、4月27日~8月31日 9:00~18:00(入城は17:00まで)
【入城料】 大人1,000円、小人(小学生~高校生)300円
【休城日】 12月29日、30日
※ 2017年4月3日時点の情報です
【住所】 兵庫県姫路市本町68
【電話】 079-285-1146
【開城時間】 9月1日~4月26日 9:00~17:00(入城は16:00まで)、4月27日~8月31日 9:00~18:00(入城は17:00まで)
【入城料】 大人1,000円、小人(小学生~高校生)300円
【休城日】 12月29日、30日
※ 2017年4月3日時点の情報です