(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史17-2)革命前夜の木屋町 志士のアジトは醤油屋 | 世界一の醤油をつくりたい 湯浅醤油有限会社 社長 新古敏朗のブログ

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丸新本家湯浅醤油有限会社の新古敏朗です。

 

中瀬賢次 著より 抜粋

 

元、木屋町四条上ル三木醤油店(高畑商店・現三木果物店)の祖は、塩屋勘兵衛で名を荘庸・号を青菰と称し、

ここに住居して、一商人としての利益に奔走するを欲せず、

家業を弟に譲り仏学、国学を修めて尊王の大義を唱えた醤油業界の偉才であった。

降って慶応三年(1867)十一月十五日明治維新の原動力となった坂本竜馬

坂本竜馬

醤油屋・近新・近江屋井口新助の二階で中岡慎太郎と密談中、幕史に襲われ、

非業の最期をとげたことはよく人の知るところであり、

斬った人は、渡辺篤という京都の人で、もと二条城勤番の与力であった。

剣術は宮本武蔵の円明流、西岡是心流を学び、明治に入ってから、

小野一刀流の奥儀を究め早業(わだ)を得意としていたと伝えられている。

 

維新の前夜、京の治安維持のために組織された市中見廻役の一員として選ばれ、新選組とも協力した。

 

中岡慎太郎

そうして前期慶応三年の十一月十五日、同見廻組は坂本竜馬が、

才谷梅太郎の変名で入洛したことを知り同日の夜、

河原町蛸薬師東の土佐藩屋敷前のしょうゆ屋前期近江屋の二階に竜馬のいることをたしかめて踏み込んだ。

そのとき渡辺篤は得意の早業で、めざす竜馬に斬りつけた。

とどめを刺したのは佐々木唯三郎であったといわれている。

 

河原町三条下ル一筋目、現京劇のところを東に入った西木屋町よりの北側に

「坂本竜馬寓居の趾」という石柱が建てられており、

その由来の概要を書いた駒板が挙げられて道行く人の目を

惹いている仕舞屋(しもたや)風の二階建ての家、

表札には中川嘉兵衛とある。

ここでは坂本竜馬や中岡慎太郎は殺されておらず、

それよりも二筋目ほど下がった辺りの蛸薬師下ルところの前記の醤油屋(近江屋新助)宅であった。

云い換えれば竜馬の第二のアジトにおいて惨劇があったわけである。

 

このことに関して川本直水によれば、中川嘉兵衛は代々材木商で、竜馬が寓居していたころは、

六代目で当時この付近の大黒町の総代であったと云う。

また惨劇のあった近新(近江屋新助)の遭難懐旧談を次のように述べている。

 

坂本先生は初め才谷梅太郎の変名で河原町の材木屋酢屋(中川嘉兵衛)宅に居たが、

後には醤油商近江屋に下宿、主人の私は坂本先生が刺客に狙われているのを

気遣って家族にも内々で裏庭の土蔵に密室をこしらえ、

万一のときには裏手の梯子を降りて誓願寺の方へのがれるように、

ちゃんと準備していたのである。

 

その後、明治になって渡辺篤は奈良県知事海江田信義の知遇を受けたが、京都に戻り、

府立一中剣道師範として子弟を育成、世にでようとせず静かに余生を送り大正四年、七十三才で世を去った。

上司の命令とはいえ、明治維新のホープをたおした苦衷を常に胸に秘めていたであろうことを、

この静かな余生が物語っている。