(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史16)醤油の高瀬川筋(京都醤油問屋史) | 世界一の醤油をつくりたい 湯浅醤油有限会社 社長 新古敏朗のブログ

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湯浅醤油の社長、新古敏朗が想いを綴ります。
和歌山県の情報の発信、イベント情報などの掲載
日本の醤油の発祥の地から世界のトップもしくは、本当に醤油にこだわっている人に知ってもらいたいと思っています。

丸新本家湯浅醤油有限会社の新古敏朗です。

 

中瀬賢次 著より 抜粋

 

他国醤油の元祖、備前醤油(岡山)が初めて京都に搬入されたのは延享、寛延年間(1744~51)で、この備前醤油と相前後して、京都にのぼり出した醤油が播州(兵庫)竜野の淡口醤油と江州産醤油(滋賀の)のものであった。

私は、湯浅町の元麹屋さんの資料を拝見したのですが、昭和の初め頃の元帳には、
その麹屋さんが、醤油屋さんに米麹を販売しています。 私の家も買っていた記録がありました。
これは、「こいくち醤油」を生産していた湯浅が、京都や大阪の商人向けに「うすくち醤油」を生産していた証拠になります。そこの故人(主人)が教えてくれました。 需要と供給のバランスですね。
その事もあり、弊社ではうすい色の「白搾り」を生産しています。
また、湯浅町は、釜揚げしらすの産地として有名で、しらす丼のお店も数多く存在します。
これも故人になりますが、しらす屋の会長さんが、昔は醤油屋さんにしらすの釜揚げの煮汁を納品していたと伺いました。それを聞いて私も試作品は製造したことがあります。
何かの機会の製造したいと考えています。

 

もっとも京都には、平安朝の昔より鎌倉時代を経て足利、室町の時代に亘り、漸進的に研究せられ朝夕なくてはならぬ調味料として京都産のものがあった。とくに足利の中期には、しょうゆが一種の営業となっていたほどで、宝永、正徳(1704~16)には、京都全市にわたって既に数百十軒の醸造家ができ、消費者に直売して盛業を極めていた。

降って宝暦年間(1751~64)には、地醤油仲間が結成されるまでに発展した。この渦中に、備前と播州のしょうゆが幾山河を越えて京都進出をなしとげたのであった。

交通はただ一つ水路によったもので、必ず飛脚によって注文した醤油が備前や播州から随路、海に出て五十石、百石積の帆船に積み込まれて風のままに海路大阪に入り淀川を経て宇治川に入り、伏見京橋において高瀬舟に積み替え、ここより数人の船頭よって舟曳きとなるわけで、「ホーイホイ」の声も勇ましく高瀬川をさかのぼり、木屋町筋、主として二条から四条までの舟入り浜で荷おろしが行われるのであった。

高瀬舟

また、”醤油の髙瀬川筋”については大正から昭和にかけて活躍した今は亡き伊藤喜三郎・島卯之助・下野幸助・森脇祐吉氏らのほか新進気鋭の前田豊三郎氏らの在りし日の面影を慕いながら産業の川、高瀬運河を背景に延享・寛延(1744~51)の頃から京都進出を挙げた他国産醤油備前・竜野物の供給に奔命してきた京都醤油販売界の越し方を幾多の史実に基いてまとめ上げ、高瀬舟が姿を消した大正の中期を最後に擱筆した。

たかせ

昭和52年5月3日