丸新本家、湯浅醤油の新古敏朗です。
和歌山県が日本の伝来の地
約800年前 中国の径山寺(金山寺)より伝わる、お味噌
金山寺味噌のたまりが日本の醤油の発祥と言われている
{和歌山県有田郡湯浅町 (湯浅醤油)}
紀州金山寺味噌の定義
1、原料は、大豆、裸麦(大麦)、米の3種類を必ず全量麹で使用したものに限る。
2、紀州金山寺味噌の具材(野菜)は、白瓜または真桑瓜、なす、生姜、しその4種類をしようする。
3、具材は、仕込み時に漬け込み、熟成させたものであること
4、和歌山県で製造されたもの
5、1,2の原材料は国産原料である事
金山寺味噌の歴史
金山寺味噌の歴史は、僧侶が中国の径山寺(きんざんじ)で製法を学び、和歌山に伝え、その「たまり」が醤油になったと言われています。(日本の醤油(湯浅醤油)の起源でもあります)
しかし、それは何故始まったか? その始まりのストーリーがあります。
北条政子さんが、自分の息子の菩提を弔う為に始まった。
1219年1月27日
『鎌倉幕府 第3代将軍 源実朝(みなもとの-さねとも)』が鎌倉の鶴岡八幡宮にて暗殺(享年 満26歳)
北条家の権力抗争で追放された第2代将軍「源頼家(みなもとの-よりいえ)」の仇を討つため甥の『公暁(こうきょう)』が起こした事件
(鶴岡八幡宮 暗殺場所)
その頃、『忠臣 葛山景倫(かずらやま-かげとも)』は、実朝の命で『宋(現在の中国)』へ渡る準備をしていました。主君の死を知った『葛山景倫』は高野山へのぼり出家し、名を『願性(がんしょう)』と改めます。
1227年
『願性』は、実朝を弔うため、現在の和歌山県由良町に西方寺(現在の興国寺)を建立します。
年老いた『願性』は、実朝の願いである中国の心残りがありました。主君 実朝の宋への想いを叶えられなかったことです。そこで高野山での修行時代に出会い、禅を修めるために宋を目指す『僧 心地覚心』に想いを託します。
1249年(建長元年)
『心地覚心(法灯国師)』は、『 源実朝』の遺骨を持ち、実朝が焦がれた『宋』へと渡り弔いました。
禅宗の奥義を究めるためという真の目的を果たせる絶好の機会であった。
その後 遺骨を納明州広利禅寺(現阿育王寺)納めた。
※実朝が宋に憧れた理由は、東大寺の大仏再建を行った宋人の陳和卿が「あなたは宋の医王山の長老であり、私はその時の門弟でした」と告白された、それは以前、夢で高僧に告げられた内容だったからです。
1254年(建長6年)
その修行先で見つけた『径山寺味噌(現在の金山寺味噌)』の製法を持ち帰り、水が適した湯浅で味噌作りをはじめたところ偶然できたものが最初の醤油、たまり醤油です。
今から七百年ほど前(鎌倉時代)に、中国の径山寺(きんざんじ)で、一人の憎が修行を終えました。後の禅宗法燈派の本山、鷲峰山興国寺の開祖・法燈国師です。 同師は「金山寺味噌(径山寺味噌)」を紀州に持ち帰ったと伝えられ、以来、温暖な気候と豊かな水源に恵まれた和歌山は、味噌造りの名産地として古くから親しまれ続けています。
しょうゆ伝道師のmy Pick