母が、70歳になってから作法の家元に通い始めて、
作法師範の看板をもらったのが76歳になった2月。
6月、病に倒れ、そのまま2年半、病院と施設を行き来することに・・・。
できるだけ間を空けないようにしていたのに、
少し疎になった時に限って・・・。
悔やんでも悔やみきれなかった。
半分、心はどこかに置いてきたような母の姿。
リューマチに侵されて、痛い痛い病院での日々。
介護度は5・・・。
一人だと食事にも手をつけない・・・。
会社に行く前に寄り、お昼休みに駆けつけ、会社の帰りにも病院によって一緒に食事を採る3ヶ月間。
ダメなときは大学4回生の就活中の娘がそれをした。
退院して、老健の施設に入った。
ずいぶん元気になった。介護度は1!
3ヶ月後、施設を出るにあたって
優子のところで暮らしたいという希望を
弟のところに行くようにと説得を毎日繰り返した。
家では母を引き取ることの同意を得ることができなかったから・・・。
弟のところでも同じような老健施設に入居!
最初は施設で一番元気なおばあちゃん!
他の入居者さんの洗濯ものを畳んだりとお世話を焼いていたらしい・・・
その間、学んだ作法のファイルが数冊に及んでいたものを本にしてほしいと言う。
弟たちは、母が呆けてきたから「何とか説得して!」と言うが
今度はその望みを叶えてあげたい!
どうしたら、本にできるか?
メルマガで発信し、それを纏めて出版がいいのではと思っていた。
その矢先
何時までも家に帰れない自分のことが辛くても
あの世代の人はとことん我慢をする。
病気で手が動かない。好きな手仕事もできない。
どんどん坂道を転げて行くように呆けていった。
まるで、自ら選んだように・・・。
作法のこと、後を継いでやってほしいと何度も何度も言う。
しまった!と思った時は、こういう場合はほとんどが遅い。
会社のリストラで、毎日が残業で、どうしようもなかった。
言い訳しているうちに逝ってしまった。
後悔の念で食事ができなくなった。
それでも働き続けたら、介護から始まって10Kg以上痩せていた。
その夏は異例の炎暑だったそうだが、一切暑さを感じない夏だった。
暗い話に付き合わせてごめんなさい。
この後、立ち直りますが、それには作法の学びがありました。
長くなりましたが、次に書きますので、お読みいただけたら幸いです。