先にもこのテーマについて書いたが、先回は作者の立場からの、彫塑(Modering モデリング)と彫刻(Carving カーヴィング)との比較をしてみた。

 今回は、読者の立場からの受け止め方の部分での相違点について触れてみたい。

 

先日、「雷記念日」ということで、blog繋がりのiloveyuさんが、菅原道真の次の歌を掲載されていた。

東風吹かば匂い起せよ梅の花主なしとて春な忘れそ

太宰府に左遷された道真の歌である。

もうひとつ、自分の好きな和歌に西行法師のものがある。

願わくば花の下にて春死なんその望月の如月の頃

いずれの歌も、読者はまず、作者が誰かを明確に意識して、その作者の心境を慮って鑑賞する…そして作者の思いに共感・共鳴する…という点で、シンパシーを感じるわけだ。

 

これに対して俳句は、まず句が先に顕っている。

よく新緑の季節になると取り上げられる句に

目には青葉山ほととぎす初鰹

がある。江戸中期の俳人、山口素堂の句であるが、大抵の人は作者が誰かよりも、この一句に、“あぁ、もう初鰹が出回る時季か…”と思うのである。

もう一つ、芭蕉の句においても、

さまざまの事おもひ出す桜かな

芭蕉研究の学者ならばいざ知らず、作者が芭蕉ということよりも、一句を読んだときに“そういえば…”といつぞやの思い出にひたるのである。作者がどんなことを思い出したか、どんな状況で一句を詠んだかに関わりなく、―当然ながら芭蕉の思い出と現代に生きる我々の思い出にリンクするものなどないのだが― 一句の導き出す世界感にリスペクトしていくという訳だ。

 

このように短歌は、作者の思いに寄り添い共感するという意味においてシンパシーを感じるもので、それとは逆に、俳句は、一句の言葉の鍵によって新たに開かれる(それは実体験を通して既知のものかもしれないが)扉があって、その扉を開いてくれたことへの敬謝というリスペクトを感じるのである。

 

先の記事で、自分の拙句に句友モニカさんが、評を付けてくださったものを載せたが、読者のイメージと作者のイメージとは必ずしも一致する必要はないし、言葉が独り歩きしていくのであれば、その方がいよいよ俳句らしい…といってよいのだと思う。