🕌エクセレントな秦一族
さぁ秦一族です🌙
始めに書きますが、この方々は超インテリ集団で、やってる事のスケールが大きくて、私では把握は難しいです(¯―¯٥)
でも秦一族書かずして、話が終われないので頑張りますが💦ほんのさわりになります😅
🌝今夜は月が綺麗ですね
中国のはるか西、ヒマラヤ山脈に近い一帯に謎の技術立国が存在しました。
古代中国の歴史書「史記」には
「夜は光り輝き、昼は煙が立ちのぼる」
ここは天山山脈にあり、鉄鋼業を主体とする非中国系国家があったとみられています。
ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、この山脈の麓にヘブライ語で解釈できる地名を見つけます。
その地名は「ヤマトゥ」。
神の民を意味し、全イスラエル12支族を象徴する「ヤマトゥ」。
それが天山山脈にあり、ヤマトゥにあった国の名前が「三日月王国(クルジャ)」またの名を「弓月王国」と言います。
秦一族が、京都(平安京・エルサレム)の町を作ったのは有名な話ですが、ご存知ですか(^_^;)
秦氏の拠点は、嵐山で月🌜と関連があります。
「桂川」の桂は、月に生えているという伝説の樹で、桂川に架かる橋は「渡月橋」。
月読神社は秦氏の創建になります。
それで、こういうことだと⤵最近気がつきました😅
太陽(左目👁️)は天照
月 (右目👁️)は秦氏
星 (鼻 👃)はスサノオ
秦氏は、自分たちが京の町を作ったにも関わらず、自分たちの拠点を町の中心から離れた端に作りました。
これは秦氏の特性です。
絶対に出しゃばらず、脇でひっそりとしていますが、必ず痕跡は残します。
秦一族は、紀元200年頃上陸したという話がありますが、詳しくはわかっていません。
🕌三柱鳥居と三位一体
秦氏は神社の創建に深く携わっています。どんどこいきます🚊
⛩️稲荷神社の総本山・伏見稲荷大社
創建 「秦伊呂巨(はたいろこ)」
⛩️八幡宮の総本山・宇佐八幡
ルーツは秦氏の支族辛嶋氏・宮司も務める
⛩️四国・金比羅宮
元は「旗宮」、「秦宮」だった
⛩️白山比め神社、愛宕神社
「秦泰澄」が山を開く
⛩️笠縫神社・伊勢神宮のルーツ
現在そこは秦河勝が建立した「秦楽寺」がある
支族、末社を含めるとほとんどの神社に関わっていると言っても良いそうです。
秦氏が拠点とする太秦には、「木嶋坐天照御魂神社」があり、青々とした境内に「元糺(もとただす)の森」と言われる場所があります。
そこに有名な三柱鳥居が立っています。
不思議な形の鳥居ですね🙄
この三柱鳥居は、「御父と御子と聖霊」を意味するそうです。
八咫烏の足も三本なので、彼らにとって「三」という数字は特別な数字になります。
🏗️ハイテク・ゼネコン集団
秦氏は、建設、農業、商業、工業、鉱山開発、養蚕、機織り産業、酒造りまで様々な面でズバ抜けていました。
莫大な資産を築き、それが組織の資金源になっていたことでしょう。
日本の美術や文学にも影響をもたらしました。
能楽を完成させた観阿弥、世阿弥はともに秦氏。能楽は猿楽とも言い、その始祖は秦河勝とされています。
秦と猿🐒出て来ましたよ🤭
また、忍者も秦氏が担いました。
京都はその昔、全体が湿地帯で人が住める環境ではありませんでした。
河川の氾濫があると、宇治や伏見の辺りで膨大な水が溢れ出します。
そこへ秦一族がやってきて、治水工事を行い、鴨川や桂川の流れを大きく変えました。土を積み重ね、盆地の中央で生活ができるようにしたのです。
この場所に「平安京(エルサレム)」が後に築かれます。
他にも古墳の建設や淀川流域の氾濫を防ぐため防波堤を作り、難しい治水工事をやってのけました。
彼らが国津と会った時のファーストコンタクトを想像してみます🐦
秦 「こちらの場所、誰も使っていないようなのですが、私達が住んでもよろしいでしょうか?」
国 「あぁいいよ😗」
秦 「ありがとうございます。私達は、土木建築全般を得意としております。もし必要なことがありましたら、お力になれると思います。」
国 「それは助かるなぁ🌟何かあったら頼むよ💓」
このように彼らは、元々いた国津が使わない環境の悪い土地に住み、自分達で改良していきました。
国津の文化、領土に土足で立ち入りません。天孫が来るまで、移民との争いを聞いたことがありません。
秦一族は、かなり早い時点で『共存・共栄』の意識があったと思われます。
国を持たない彼らが、どうすれば他国の者から受け入れられるのか、知っていました。
国がない代わりに、彼らには知恵と技術がありました。
この時点で、すごい集団だということがお分かりいただけると思います。
彼らが日本に来たことで、日本のレベルが向上したことは言うまでもありません。
大和は戦いは強かったかもしれませんが、戦いの後は国造りが待っています。
そうなると秦氏に頼るしかないのです。
どんな政権になろうと、結局この国を縁の下から支えているのは秦氏なんです。
これは平安時代の貴族、藤原道長の有名な歌です。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
一般的に言われている訳は、この世は 自分のためにあるようなものだ。 望月のように 何も足りないものはない。になります。
道長がこの歌を詠んだのは52歳(1018)。翌年、出家して京都に九体阿弥陀堂、1022年には摂関期最大級と言われる寺院・法成寺(ほうじょうじ)を建立します。
壮大な法成寺の建立に、資財と人力が注ぎ込まれました。そんなことを見ますと、裏に秦氏(月)の協力があったんじゃないかな〜🙄と考えられ
歌の本当の意味は、秦氏(月)を得られて、僕超ハッピー🎉になると思います。
秦氏をGETできるかどうか🌝
昔からこれがとても重要だったんです。
🕌どこに行ったの?秦一族
京都に平安京を作ったのは、秦一族と言われています🕌
その証として平安京のシンボルが「六芒星🔯」で、これはイスラエルの象徴『ダビデの星』で、現在のイスラエル共和国の国旗に描かれる図形です🇮🇱
京都の市章です🔯
六芒星から、伊勢と京都の繋がりが見えます。
大和が、秦を支配していた。
実は秦が、大和を支配していた。
書籍にはどちらの意見もありました。
秦一族は表立って活動しないので、実態が掴めません😎
「失われたイエスキリスト『天照大神』の謎」より
とかく秦氏は奇妙な渡来人である。元々日本人ではないのに日本固有の宗教である神道に深く帰依している。それもまた半端ではない。
平安京は天皇のための都である。秦氏の首長、太秦の為の京都ではない。京都を誘致することで経済的に発展するのは分かるがそれで秦氏が十分な見返りを受けた様子もない。むしろ、この時を境に、秦氏は歴史の表から消えていく。
どうして秦氏は、天皇のためにここまでするのだろう。
秦一族は、国を持ちません。
なので、定住している国の、時流に逆らわず従う方針をとっていたはずです。
天孫が日本に乗り込んできた時、彼らは領土に侵入し、出雲族を殺し、キリストを強要しようとしました。
自分たちの神が正しい。そう思っていたからでしょう。
秦一族は、前から日本にいたのに、思想を強要するようなことはしませんでした。
彼らは始めから、自分たちが信仰するキリストの子孫がこの国にいることを知っていたのではないでしょうか。
もしくは、尊重すべき思想を持った国という認識があったかもしれません。(上森さん説より)
だから、何か教える必要もないし、殺す必要もない。
共存共栄しようとしたのです。
イスラエルの流れを汲む者と言っても、全く別の集団のようです。
京都の町造りは、秦一族の技術を駆使して行われました。
そして、すべてが終わって、消えてしまった…
その足取りを知る者はいません。
秦さん、何処に行ってしまったの…
✦参考資料
「京都はユダヤ人秦氏がつくった」
著 田中 英道
「サルタヒコの行方」 著 戸谷学
「謎のサルタヒコ」 著 鎌田東二
「失われたイエスキリスト天照大神の謎」
著 三神たける 飛鳥昭雄