「『有利』より『好き』を基本に勇気と決断と覚悟の美意識を持ち直そう。」

堺屋太一はそう説く。その言葉には熱く背中を押される思いがする。でも、私が好きなことって何だろう?きっと何かあるはずだが、おそらく私の場合、ただ「好き」だけではダメな気がする。いったい何が必要なのだろう。

 

その仕事に存在意義や誇りが感じられること。

何らかの組織(共同体)の目的や理念に共感し、それに沿った活動ができること。

お金だけでは量れない価値や満足感、やりがいを得られること。

自分自身が成長できること。(単にスキルやノウハウだけでなく人間としての在り方や生き方について。)

『清貧』であること。確かに、貧しくあれば必ずしも清いとは思わない。自分が頑張った成果をお金という尺度で確認することも必要かもしれない。ただ、やりたくないことを我慢し、納得できないことを引き受ける代償として高い報酬を得ることが、自分の仕事を正当に評価されている証とは理解しがたい。

 

負け惜しみではないのか・・・?そう自分に問いかけてみたことも何度かある。

「あんなにやったのに」とか、「あそこまで行ったのに」とか、「あれだけもらっていたのに」とか、他人はそう言うかもしれない。でも、自分の心は明らかにそう感じていない。今や年収10分の1になり下がろうとしている私は、かつての同僚から見れば「負け犬」もいいところかもしれない。それでも、気持ちは負けないで生きていられる自分を、私はけっこう幸運な人間だと感じている。「オレだってホントは犠牲者なんだよなぁ」なんて、こっそり自分に言い訳しながら仕事していたくはないから。第一、それほど他人は他人のことをいつまでも気にしたり覚えていたりはしないものだ。

 

もちろん、人はお金が無ければ生活できない。だが、自分にとっては「人はパンのみに生きるに非ず」と言う方がよりしっくりくる。結局、私はお金では頑張れないのだ。ただ生きるだけなら何をやってもいい。そこに信じるものや大切なものがあるなら、そのために働けることは幸福だと思う。

 

おそらく、私はとても古いタイプの日本人なのだろう。新しい世界を知ること、より広い視野を持つことが重要なことも理解しているつもりだ。ただ、私の価値観、特に職業観は、おそらく私自身が認識している以上にとても「純日本的」(あるいは前近代的)らしい。より多くを得ようと前に進むより、いつでも捨てられるという覚悟の方を潔しとしてしまう。そもそも資本主義社会や営利組織には向いていないのかもしれない。

 

凛とした人でありたい。信念と誇りを持ち、大事なものを守るために戦える人でありたいと思う。

「キャリア」や「カッコよさ」、「広告塔」だとか「後輩女性にとってのメンター」だとか、確かに人に言われたことはある。でもどこかでシラッとしてしまう自分がいる。結果としてそうなら嬉しいかもしれないが、別にそれを目指してやってきた訳じゃない。誰かからわかりやすく名前をつけられた「スタイル」や「カテゴリー」なんて、たいてい居心地が悪いものだ。そのうちその「スタイル」だけが一人歩きして、自分では何のために頑張っているのかが見えなくなった時に、私は何もできなくなった。まるで『燃え尽き症候群』みたいに。

 

「自分らしく生きるのに手遅れなんてない。人生なんて、決心一つで変えられる。」そう語った小説の主人公の言葉に、「それは真実だよね?」って心の中ではすがりつきたくなる自分が今はいる。

もう一度、私は自分の価値観に従った生き方を取り戻せるだろうか。先が見えない自分、何が「好き」なのかさえつかめていない自分だけれど、その『勇気と決断と覚悟』が持てるまで、私は私をじっと信じ続けていられるだろうか。どうかそうでありますように・・・!