「安心」の反対、それはもちろん「不安」だ。
その「不安」の原因として明確に何かの対象が意識されると、今度はそこに向けて「不満」のベクトルが働き始める。
そりゃあ誰だって「不安」はない方がいいに決まっている。ただ、すぐにも「不満」へつながってしまいそうな「不安」をとりわけ現代社会が抱えやすいとしたら、それはあまりにたやすく「安心」を求めようとするメンタリティの裏返しではないかと思う。

生きてる限り、常に何かしらの「不安」はつきまとう。環境の変化や高い目標に挑もうとすれば、そこにもれなく「不安」は付いてくる。だからこそ、それを乗り越えようと人は努力するし、強くなろうともがく。そこからやみくもに逃れようとすれば、「不安」に耐えて踏ん張る筋力はどんどん退化していくんじゃないだろうか。


今の時代、政治家はもちろんのこと、食品メーカー、製薬会社、銀行、保険屋、セキュリティ会社、自動車メーカー、公共交通機関 etc.etc. に至るまで、みんな口をそろえて「安心」を大合唱する。けれど、そもそもこの世の中に絶対間違いのない「安心」なんてあるはずがない。ただそこを目指して最大限、知恵と誠心誠意を傾ける企業努力を私たちが「信じる」からこそ、社会の秩序や平和は保たれる。逆に、「もしも」のことが起こった時、全力でそれをリカバーしようとする姿勢を見せられなかったら、その企業は世間からの「信頼」を失うだろう。

宮台真司が説く「安心」「信頼」はまさに至言だ。
(『日本の難点』~幻冬舎新書)


「おかしなことは何も起こりません」

それを期待することが「安心」(慣れ親しみ)。
だが、肉親や無二の親友はさておき、そんなことが簡単に言えるのは、よっぽど馴れ合いで薄っぺらで、むしろチェック機能が何も働いていない恐ろしい社会ではないだろうか。
私たちの誰一人として、ミスをおかさない、忘れない、嘘はつかない、うっかりしない、なんて人間はいないし、それを保証できる組織も存在しない。もしあったら、それ自体が怪しくて疑わしい。そういう耳触りのいい言葉には安易に騙されちゃいけない。

だとしたら、私たちが「信じる」べきものは何だろう?


「いろいろあっても大丈夫です」
それを信じられる気持ちが「信頼」。
そう、人生いろいろあるのが当たり前なのだ。「不安」も「失敗」も「挫折」も絶えないこの世の中で、だけどそこから逃げずに、一緒に乗りきろうと支え合う関係こそが「信頼」と呼べる。確かにそれってそんじょそこらに転がってるシロモノではないかもしれない。けれど、ひとりぼっちで「不安」に立ち向かうのはつらい。だからしっかりと手をつなぐ。真っ暗でデコボコだらけの道でも、勇気を持って歩き出した人だけに「信頼」は実感できるんだと思う。

「安心」は脆弱だが「信頼」は強靭
それは「不安」に耐えて生きる私たちにとっての光。明日へと踏み出すチカラをくれるもの。