では、13歳――マルファン疑いで大学病院へのつづきを。
マルファン症候群関連の過去記事
【1】 マルファン症候群と向き合う
【2】 マルファン症候群――米津玄師さんのインタビューで注目
【3】 マルファン症候群――私の幼少期
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大学病院で定期的な検査をすすめられたにもかかわらず、その後、私がその病院でマルファン症候群について調べてもらうことはありませんでした。
この直後から母がフルタイムで仕事に行きはじめたことがいちばんの理由だったと思いますが、母の定休日は平日でしたから、その気になれば病院くらい行けたはず。。。
要するに、その気になれなかったのでしょう。
病院に行けば、今度こそマルファンと診断されてしまうかもしれない。それを恐れていたのではないかと思います。母にはそういうところがありました。
後年、自分が癌になって、最初の手術から数年後に転移が認められたときも、母は病院に行くのをやめてしまいました。改めて病院に行ったのは、病状が悪化してどうしようもなく具合が悪くなってからです。
私は逆に、早く病院に連れていってほしいと思いました。
きちんと検査をしたうえで、マルファン症候群ではないというお墨付きが欲しかったのです。
ひとつには、過激な運動は避けるようにといわれたものの、その境界があいまいで、釈然としないまま過ごしていたことが挙げられます。
体育の先生も病気のことはよくわからず、肋骨の変形があるから、じゃあマット運動はやめておこうか、といわれたり、さすがに持久走は見学しましたが、ハードル走は普通にやっていたり、水泳はだめだといわれたけど、友だちとプールに行くのもいけないのだろうか、と悩んだり。
いまではかなり細かいガイドラインがあり、運動のほかにも、血圧が上昇するおそれのある吹奏楽などは避けるように指導されているようです。
結局、自分がマルファンかどうかもわからないまま運動に制限をかけられることに我慢ならなくなり、私は高校入学と同時にバスケット部に入るという暴挙(笑)に出ました。
そんなにバスケットが好きだったのか、といわれるとそんなことはなく……たぶん……反抗期だったんでしょうね
高校時代
でも、中学でバスケットの経験がないうえ、体育の授業すらまともに受けていないから、ハードな練習には当然ついていけません。
胃のあたりに濡れた綿を押しこまれるようなあの感覚がまたやってきて、練習の途中で見学させてもらうこともしばしばでした。
それでも練習は休まず、おかげで全身筋肉痛で、いつも発熱しているような身体の重さがあり、手摺りに頼らないと階段の上り下りもできないという日々が長く続きました。
疲れすぎて食事が喉を通らず、夕食時は塩辛い味噌汁だけがおいしくて、何杯もおかわりした記憶があります。
昔は運動中に水を飲むことが許されなかったので、脱水症状になっていたのかもしれません。
へなちょこで、先輩には毎日のように怒鳴られるし、夜、布団に入ってからは気のせいか心臓が痛いようなこともあり、もしかしたら本当に死んじゃうかも、と不安になったことも。
それでも部活をやめなかったのは、ここでやめたら中学のソフトボール部の二の舞になる。たぶん一生、心の傷になって残る、と思ったからです。
やがて10月になり、入部から半年たったある日のこと。
奇跡が起きました
身体が軽い 考えるより先に身体が動く ランニングシュートをすれば、いつもジャンプする高さより、さらに一段ふわっと身体が浮き上がる
いったい何が起きたのだろうと自分でも不思議でした。
練習が終わると、メンバーのひとりひとりに注意やアドバイスをしていた先輩のひとりが、私の顔を見て一瞬ふっと口をつぐみ、それからやおらいいました。
ねえ、なんで急にうまくなったの?
自分でも不思議でしたが、どうやらはたから見てもはっきりわかる変化だったようです。
私は小さい頃から夏が苦手でした。毎日のように頭が痛いし、鼻血は出るし、だるくてごろごろするばかり。そんな季節が終わって、やっと涼しくなったのがよかったのでしょうか。
それと、どんなに苦しくても、半年くらい死ぬ気で頑張ると最初の突破口が開ける、と先日見たYouTuberもいってました(笑)
留学したばかりの頃はネイティブの英語がまったく聞き取れなかったけど、半年くらいたったら、ある日突然、聞き取れるようになったって。
だからたぶん、そういうことだったのでしょう。
といって、ドクターストップが出ているのに過激な運動をするのは決して褒められた話じゃない。
だから、良い子はぜったい真似をしないでね
何もなかったのはたまたまです。
本当に危険なので、お医者さまの注意は守りましょう。
ただ、このあとの私は部活に行くのが苦痛ではなくなり、結局、3年の春に引退するまでバスケを続けました。
体力がつき、自分は病気なんかじゃない、という妙な自信もつき、マルファン症候群のことは意識から薄れていきました。
高校2年のときに両親の離婚に伴って転居し、中学1年のときに行った大学病院は、距離的にも遠い場所になっていました。
20代になって
それでも、やはり母は気にしていたらしく、転居先に程近いクリニックには事情を話してあって、風邪などで受診すると、先生は私の手を取って指の長さなどを仔細に観察しました。
マルファン症候群の場合は手足の指が長くなり、その形状を
クモ指などというからです。
うーん、違うと思いますけどねぇ
長年、どこかの大学病院の内科にいて、定年になってからそのクリニックに来たという、銀髪で品の良い長身の先生でした。
私のマルファンの疑いに関しては否定的な見方でしたが、何かの折にレントゲンを撮ったときには
この子は肋膜をやった痕があるね
といわれ、心電図を取ったときには
不整脈が出てるよ
あなたの心電図は、ここにある60歳の男性の心電図より状態がよくない
煙草はやめなさいね
などといわれましたが、、なんとなくもう健康な私という気分に満たされていたから、医師の話など右から左。
煙草を吸い、朝まで酒を飲んだくれ、学生生活とバイト、その頃から足を突っ込んだフリーライターの世界、行きつけになった飲み屋の仲間たちとのハチャメチャな日々を送りつづけました。
そんなある日――
母がいいました。
昔、大学病院で、本当にマルファン症候群なら
ハタチまで生きられないっていわれてたの
あんたはもうハタチ過ぎたから、やっぱり違ったのよ
はあっ?
初耳でした。
母が私を大学病院に連れていくことを渋っていたのは、医師のその言葉が原因だったのでしょう。
現在、ネットでマルファン症候群について調べると、かつては30歳(あるいは40歳)まで生きられないといわれた時代もあるが、いまは適切な治療により平均寿命をまっとうできるようになった、とあります。
じゃあ、母の聞いたハタチまで生きられないというのはいつの時代の話なんだ、と思いますが、とりあえず私は、
そうよね、あれだけバスケットをやってもなんともなかったんだし、やっぱり違ったのよね、と完全に思い込みました。
ちなみに、下の写真は私が19歳当時のものです。
私はTwitterやFacebookで自分の写真はいっさい出さない主義ですが、マルファン症候群をググると、「マルファン/顔つき」とか、「マルファン症候群/女性」という項目が出てきて、気になっている方が少なからずいるようです。
なので、思い切って出すことにしました。
もうウン10年前のものだしね。
左が19歳の私。右が17歳の弟です。
前にも書きましたが、弟はマルファン症候群ではありません。
このときは、二人で砂浜を歩いていると、すれ違った人が
ねえねえ、いまの二人って双子?
なんて囁き交わす声が聞こえたものでした。
同じ親から生まれ、双子と間違われるほど似ていても、片方はマルファン症候群で、もう片方は違うんです。
なんだかおかしいですね。
(マルファンの子はマルファン?に続く)
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