肺が痒いです。取り出して冷水で洗いたい。
久しぶりにお悩み相談を頂いてうれしいです。
ぼくも悩みたいけどあんまり自分自身に関する個人的な悩みが、なくはないけどあんまりないので、誰かの悩みを一緒にウンウン考えたいのです。
今回のお悩み。
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まだ募集していますか?
おはようございますルシファー様。
私は最近大切だった人を好きではなくなりました。
人生で1番影響を与えたと言っても過言ではない人の言葉が全く響かなくなったんです。
嫌いになったわけではなく、かといって一番好きだった頃ほど好きではありません。
こんなの人生で初めてでどう感情での処理をしたらいいか分かりません。
その人からもらったものもどうしたらいいか分からないし、かれこれ一年ほど悩んでいます。
こういうのっていつ気持ちに折り合いがつくんでしょうか?
また、また好きになるかもしれないと思うと物も捨てられません。
どうしたらいいのでしょうか?
おはようございますルシファー様。
私は最近大切だった人を好きではなくなりました。
人生で1番影響を与えたと言っても過言ではない人の言葉が全く響かなくなったんです。
嫌いになったわけではなく、かといって一番好きだった頃ほど好きではありません。
こんなの人生で初めてでどう感情での処理をしたらいいか分かりません。
その人からもらったものもどうしたらいいか分からないし、かれこれ一年ほど悩んでいます。
こういうのっていつ気持ちに折り合いがつくんでしょうか?
また、また好きになるかもしれないと思うと物も捨てられません。
どうしたらいいのでしょうか?
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ご相談ありがとうございます。
これはとても難しいですね。
誰もが経験する単純な現象に見えて、幸せに生きようとするうえでは「誰と共に生きるか」というクリティカルな問題だと思います。
いくつかに分けて考えてみます。
◼️お相手との関係性
ご相談内容の文面では、お相手の方との関係性が具体的になっていない状態です。
恋人や伴侶のようにも見えるし、先生や師にあたる方のようにも見えるし、それこそ本命のバンドマンとバンギャルさんのようにも見えます。
「くれたもの」というのはグッズや音源とも解釈できますね。
関係性がどれにあたるか、によって具体的にどう行動すべきかが変わってくるはずですが、ニュアンスとしてはフィジカルな行動についてではなく、あくまで「自身の内面をどう処理すべきか」がお悩みポイントだと解釈します。
とすると、このブログの読者層も考慮し、
相手を「ずっと憧れて追い続けていて、何度か言葉を交わしたこともあるような、微妙な距離感のミュージシャン」と仮定します。
「くれたもの」は作品やグッズ、あとはステージから投げたものなどを想定します。
平たく言えば「本命麺に昔程ときめかないんだけど嫌いにもなれないし動向は見守りたいんだけど、なんかなあ」現象について考えます。
全然違ったら申し訳ないです。
気が向いたらもう一度具体的にご相談ください。
◼️「好き」の種類
「好き」もまた色々ありますよね。
一回英語に直したりするとわかりやすいですが、
Love 愛する
Like 好む
Respect 尊敬する
Interest 興味を惹かれる
Favorite 気にいる
など、「プラス感情」でパッと思いつく単語でこれくらいなもんかと思います。
訳は辞書的に正確ではないかもしれませんが、ぼくの感覚的な認識は上記です。
実はこれがどれなのか、と、相手との関係性とはニアリーイコールだと思うのですが、お相手が前述の内容で相違なければ、たぶん全部なのでしょう。
だからこそ、拗らせがちなのだと思いますし、実際どうしたらいいかわからないのは、ざっくりこの5つが複雑に絡んでいて、尚且つバランスを崩してしまったからだと思います。
この問題を解く鍵は、ここの整理整頓なのではないでしょうか。
◼️「好き」のプロセス
脳には、原始的な部分、つまり直感や感情を生み出している部分と、言語的で論理的な部分があるそうです。
おそらくは、まず直感的に好き嫌いを判断して感情を反芻し、その中でどういうところが何故好きなのか嫌いなのかを意識無意識に確認していって、結果、対象物が自分の中でどのポジションに入るのかが決まっていくのだと思います。
これは可逆的で、徹頭徹尾好きか嫌いかもあれば、嫌いから入ったけど好きに収まることもあれば、好きだと思ったら嫌いだったパターンもあると思います。
わかりやすい例をあげるとすると、映画「耳をすませば」のこそばゆいところは、自分と似た読書趣向の相手に興味をもつところから始まり、自分にないものを持った理解できない相手を嫌いだと認識した時期もありつつ、時間の経過と相手との交流の中で、自分を見つめ直していった結果、中学生ながらに「愛してる」に至る生々しいプロセスを、ああした画面で見せられて、その中で何かしら観客側が見られたくない青くさい自己を発見させられるからだと思います。
それぞれパターン別に分析するととんでもない量になるので、今回は「徹頭徹尾好き」パターンを想定して考えます。
おそらく最初は、ルックスや声など、五感の中でもやや離れた位置から認識できる、視覚や聴覚の部分から入っているはずです。
ここで、最初のごく短い時間で来るのは「興味を惹かれる」だと思います。
そこでインタレストが発生しなければ、好きや嫌いを判断する手前で対象物は認識から脱落することになるでしょう。
「好きの反対は、嫌いではなく無関心」というのは、この「アンテナに全く引っかからなかった」という状態を指している言葉だと思います。
つまり、「興味」が最初に来て、次のフェーズで「好き」が発生すると考えます。
そのあと、「好き」は細分化して積み重なっていき、対象を認識する中で1つのポジションを得ます。
そのポジションが、恋人や伴侶にしたい人であったり、推し とか 本命麺 とかであったり、時には手の届かない御神体のような象徴的存在だったり、もしくはその全てであったりすることもあるでしょう。
◼️お悩みの本質
以上から、「好き」には様々なフェーズと種類があり、それらが複雑に絡み合って相手のポジションを確立している、ということがおわかりかと思います。
相談者様が悩んでおられるのは、おそらくご自身の中で様々な「好き」が、まるで1つの塊のような認識になってしまっていて、「好き」か「嫌い」かを選ばなくてはいけないような、ある種の強迫観念のようなものに囚われてしまっているからではないでしょうか。
おそらくとても真面目で純粋な方なのだと思います。
例えば、昨今は不倫問題が関心を集めていますが、これも「伴侶に選んだ相手以外は愛してはならない」という社会的規範が、ヒトの「好き」の複雑さに対応しきれていないから問題になるのだと思います。
少なくともぼくは、出会ったばかりの相手との活発で肉体的な愛と、長年の連れ添った伴侶との静かでも深い精神的な愛は、同じ愛と呼ぶにしても全く別物だと思います。
同じ相手を2年以上、活発に愛することは難しいです。
ぼくもそれなりの時間を生きてきたので、そうした経験も実際にあります。
だからと言って嫌いになったわけではなく、確かに好きではあったりしたのです。
良い悪いは一旦置いておくとして、男女間の不倫を、性交の有無で定義しなければ、日本での不倫問題は無くなります。
それは、殺人罪が無ければ殺人犯がいなくなるのと同じです。
もちろんこれは極端な例ですが、本来問題にならないことも、分析せずにいっぺんに処理しようとすると問題になったりするものです。
不倫や殺人は、確実に大多数の人間にとって、大きめの利害が発生する事柄ので、法律である程度まとめて決めごとを作っておかなければ却って面倒になりますよね。
しかし、相談者様の「好き」という感情を、そして「好きじゃなくなった」という変化を、世界の誰が罰することができるのでしょう。
強いて言えば、唯一罰することができるのは、あなた自身です。
「こんな中途半端な好きは良くない」
「好きじゃないのに気にするのは良くない」
というような、自罰的な考えを持ってはいませんか。
大丈夫です。
あなたの感情を制限する法律はありません。
◼️どうすればいいのか
お相手の方に対するご自身の「好き」を、過去分と今現在の分を、それぞれ細かく分析してみてはいかがでしょうか。
おそらく、違和感を感じ始めた時点で、何かしら前述した「ポジション」が変わっているはずです。
それなら新しい「ポジション」を与えてあげれば、悩まなくて済むと思います。
◼️例「本命麺」
そもそも人によって本命麺の定義やポジション自体が違うとは思いますが、ぼくが思うそれで妄想しながら整理してみます。
以下は実在しない、妄想の話です。
わたしは21歳のときに
たまたま行ったライブの対バンで、
ボーカリストのAさんに興味を持ちました。
観るほどにルックスが洗練されていて、歌もとても上手で、表情も素敵だったので、これは好きだな、と思い、CDを買って帰りました。
家でCDを聴きながら歌詞を読むと、非常に共感できる内容で、ますます気になる存在となり、
SNSやブログをチェックするようになりました。
Aさんの考えは、
「ヒトは社会に抑圧されている」
「本当の自分をとりもどせ」
というものでした。
その中で、普段の行動に関する考え方も影響されるようになり、服装などもAさんを意識するようになりました。
何かを決めるときも「Aさんならどう考えるだろう」と一旦想像して決めるようになっていました。
わたしは本当の自分であることを常に心がけました。
ネット上などでAさんが誤解されていると腹が立って、そうではないと反論したりしました。
わたしは自分がAさんにとって最も深い理解者であることを望みました。
就職してからも、Aさんのライブに通いました。
社会に抑圧を一層感じる生活の中、Aさんの声はそこからの解放を応援してくれているようで、とても勇気づけられました。
やがて年月が経ち、自分も管理職になった頃、気がつくと、わたしのAさんへの眼差しが変わっていることに気がつきました。
「社会に縛られず、本当の自分であれ」
というメッセージも、間違っているとは思わないものの、なんとなく反社会的な響きに以前ほど共感できなくなっていたし、むしろ社会人の立場からすると、正直不快に思うこともしばしば。
Aさん自身も年をとったことで、基本的には変わっていないものの、以前のギラギラしたようなエネルギーは感じられなくなっていました。
でもそれは、きっと長年連れ添った伴侶のようなものだと思っています。
光には慣れてしまって、もう以前のように眩しくは感じません。
さらに多くの時間を共有すれば、ときに良くない面や、相反する部分が見えて、不快に思うこともでてくるでしょう。
でも、確かに、かつては何よりも大事に思っていた、わたしに色々なことを教えてくれた、大切な存在であることに変わりはないのです。
もう以前のように、毎回ライブへ行って、一緒になって暴れるようなことはしなくとも、それは20代前半の自分がそのとき本気でそう思っていたことの微笑ましい思い出として、色々なものをそっとしまっておいて、またふとしたときに楽しもうと思います。
以上。
よくありそうな例ですが、単純に年をとって互いのポジションが変わっていった、ということです。
「本命」というポジションから、「昔好きだった大切な人」というポジションに変わったわけです。
で、将来的に「昔好きだった」から「また好きになった」があっても、あなたは何も罰を受けません。
ごく普通の、自然なことの範疇だと思います。
◼️蛇足
むしろ、お相手の方が自分にとってどのポジションに収まるのか、というのを長いこと悩んでいるなら、むしろそれを楽しんでしまう、というのもひとつの対処かもしれませんね。
今は無自覚だから悩ましいことも、分析的に見ていけば楽しめることかもしれません。
以上です。
お役に立てれば嬉しいな。
相談料として、今咳がとまらないぼくの一日も早い回復を、毎食前と就寝前に祈ることを命じます。
おやすみなさい。