いつ頃だか分からないんだけど、「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのだろう」とずっと思って生きてきた。

 

====

 

同じ問いに4歳の時から向き合い、その命題を専門としながら、アユシュビッツを経験し生還したヴィクトール・フランクルさんのことを知った。まあそれも偶然で、施設に入っている母と共に外食をした際に、母が新聞のテレビ欄から見つけたNHKの番組からだった。その番組では、このような挿話があった。

 

フロイトが語る「人間は心と体において自分の本能に従う二元論」。フランクルはこれに対して、精神次元があるということを主張する。

 

疲れて電車に乗り終点まで乗れる席を確保したところで、お年寄りが目の前に来た。譲るか譲らないか。自分のエゴとの闘いの中で迷った末に席を譲った時に、自分の本能を超越した力が生まれたと感じた。それは心と体の二次元には無い、新たな「精神次元」とよぶべきものだ。そして、そこに生きる意味があり、喜びがあるのではないか。

 

====

 

自分の本能や自我との葛藤の中に、人間が持つ新たな「精神次元」の存在を僕もよく感じてきたし、それが生きる意味なのではないかと感じる。その葛藤には、自己嫌悪や、身の回りに起きた出来事による悲しみや自殺への欲望などが含まれる。でもその苦しみにも意味があり、それが生きる意味なのではないかという。

 

まだフランクルさんの代表的著作「夜と霧」は読めていないけど、次の講義(といっても地球化学の講義なのだが)までに読み終えたい。

 

つまり化学が教えることは、人間はエネルギーを投入して、エントロピーの増加(人間というシステムの分解)を抑えながら生きていて、死ねばエントロピー増大則に従ってばらならになる、ということである。

 

でもそうして人間という存在を物質的に捉えるだけでは説明できない、葛藤や苦しみやそれを乗り越える精神次元・善への戦い・人生への肯定感が、人間を「よりよく」生かしている、でもそれも、当たり前だけど体内(実際には脳なんだろうけど)での化学反応の積み重ねで生じている「精神」なのである・・・。

 

====

 

番組でフランクルのことを扱った映像の中で、「ja」という単語があった。「それでも人生に「Yes」という」という彼の著作のドイツ語の表紙だ。むむむ、これは捨て置けぬ単語だなと改めて思った。我ら日本の最初の一文字ではないか。Ja-pon。ponとは本、根本。つまり日本とは、「根本はYes」という意味なのか!正にフランクルを体言するような国名です。日本人樽もの、人が持つYesを信じて、真っすぐに頑張って行こうではないですか。