キノスムママニ。

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好きなことを書いて、好きなものを愛でる。
ただ、ただ、身勝手に。そんな空間があってもいいじゃない。

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日本プロ野球界の雄。

読売ジャイアンツ。(以降Gと表記。)

 

かつては「巨人・大鵬・卵焼き」なんて言われるくらい国民的な球団で

その後も「O(王)・N(長嶋)」という大スターを生み出し、

特に長嶋さんに至っては、もはや「野球界」を超えて「国民的」なスターとして愛されている。

 

まず、いきなりの余談ですが個人的な立場でいうと、

私は広島カープファンで、Gという球団のスタンスは嫌いだけど

別に選手個人や、そのファンに対して総じて嫌悪感を持っているわけではない。

 

 

ただ、ここ数年Gの動きで気になることがある。

 

それは主に2019年よりGの監督に再就任した「原辰徳」氏の存在。

 

原辰徳氏は、

2002年に前任の長嶋監督から引き継ぎ〜2003年まで、

堀内氏を挟んで、2006〜2015年まで監督を務め、

その後は当時選手だった「高橋由伸」を半ば強引に引退させ3年間監督をさせ、

2019年から「原辰徳」の第三次政権が、再々スタートした・・・という

いわば、2000年代に入ってからのGの「顔」です。

 

話を一旦、戻しますが

Gという球団は、戦後の時代に、

敗戦国として痛手を負った日本の娯楽の中心的な存在だったことは間違いない。

その中で、国民の大半がGファンであるという状況をつくりだしプロ野球界を引っ張った。

そして「長嶋茂雄」という、まさに唯一無二の国民的なスターを生み出した。

 

これは、私がGを好きとか嫌いとかではなく事実。間違いなくGはいつも娯楽社会の中心にいた。

 

スター長嶋茂雄氏は、現役引退後も監督に就任し、まさにGの「顔」として活躍し続けた。

ある意味では、球団<長嶋氏 といえるくらい、球団に置ける影響力を持ち、

低迷しつつある野球人気・そして球団人気を引っ張り続けたように見える。

 

しかし、長嶋氏も人間。加齢による身体的な衰え、病気などもあり、

いつまでも「スター長嶋頼り」とはいかないことは球団側もわかっている。

そんな中で次なる球団の顔としての仕事を任されたのが「原辰徳」氏ということになった。

 

でも、やっぱり何かが少しうまくいっていない気がする・・・と球団は感じているのでは。

原氏もスターだったのに。見た目だって悪くないのに。監督としての結果も、悲観するほど悪くはないのに。

 

ここで、根本として間違ってはいけないと感じることがある。

まず、これだけ多種多様な娯楽が溢れる社会の中で、「完全にG中心とする、かつてのような野球人気が復活することはない」ということ。

そして、「長嶋氏はつくられたスターではない」。様々な性格的・身体的なバランスによって無条件に人に愛されるキャラクターだったこと。

 

現代における「プロ野球」は、様々な娯楽の中の1つ。好きな人は好きだけど、決して「国民的」な娯楽ではない。

これは時代の経過の中で、様々な娯楽が生まれ幅を持つことで、個人の趣味嗜好により好きな娯楽を選べる環境になった。

これにより何をしようが、国民の大半が熱狂するような娯楽というもの自体が存在しにくい時代になっている。

かつての「巨人・大鵬・卵焼き」は、裏を返せば、戦後の日本には「野球・相撲・食事」という娯楽くらいしか、

わかりやすいエンターテイメントがなかったということとも言えるのでは。

現代は娯楽が細分化され、メディアも多様化する中で、かつての「一極集中」がないだけ。

むしろ、「プロ野球」年間140試合以上を興行として成立させ、選手に「億」の給料を払える立派なエンターテイメントだ。

 

球団がいくら求めても、「原辰徳」は「長嶋茂雄」には絶対になれない。

あたりまえのことだが、多分G球団のフロントは、わかっているようでわかっていない。

ある種、過去の「一極集中的な人気」×「絶対的な人気者」によって、球団運営を成立させ現在があるばかりに

現代でも、それにより状況を打開できると信じているように感じる。

 

「原辰徳」はGの歴史には重要な人物であることは間違いない。

でも、彼が存在するだけで「プロ野球」をどうこうするほどの影響力はない。

それは、原氏個人の人間的な部分も含まれるが、時代のありかたもある。

挙句、女性トラブルによる反社会勢力との金銭問題も出てしまう始末では、ファンはついてこない。

 

でも、2019年の原氏の態度を見ていて感じた。

原氏は完全に「長嶋気取り」。

 

ーやっぱり俺だろ。球団も、プロ野球も、俺を必要としているんだろー

 

しかたがないのかな。だって、だって球団がそーゆーふうに扱ってるんだもん。

「長嶋を継ぐものを祀らないと、Gは永久に不滅じゃなくなる」

G球団は、気がつけば「ある1人の神を崇拝することで、全てを成立させる」ような体制になっているような気がする。

筒香選手が本外国人特派員協会行った記者会見で発した

少年野球における問題提起。

https://news.yahoo.co.jp/feature/1304

 

これは、私にも思うことがある。

 

ここで綴るのは、約25年前の私個人の経験からなるもので

全てのチームに当てはまるか、現在の環境も変わらないかまではわからない。

あくまで、私個人の思いと恨みと、、、そういった類のものです。

 

私は小学校2年生の時に、地域の野球チームに入った。

当時、特に野球が好きだったわけではないが、

近隣の友人が、そのチームで野球をやっていたので

なんとなく始めたという経緯だった。

 

最初は楽しかった。体を動かして、ボールを追いかけて。

しかし、小学校の高学年になってくると色々と奇妙な状況に気がつく。

 

「コーチ」とよばれる父兄の中に、「元読売巨人軍」の肩書を持つ

1人のオヤジが来てから、暫くして何かがおかしくなった。

コイツは、とにかく他の父兄たちを小馬鹿にしていた。

まぁ、当然といえば当然な部分もある。

仮にもプロになった人間からみれば、大した野球経験もないオッさんが「コーチ」として

野球を教えている環境なんて、ちゃんちゃらオカシイわ。。。と

 

ま、この人も一応プロテストに合格したってだけで、1軍経験もなく数年で解雇された

言ってみれば「プロ」としての実績なんて殆どない、その時点では、ただのオッさんなわけなんだけど。

コイツは本当にサイテーな人間で、堂々とエコヒイキもするし、堂々とチームのルールを破った。

子供の為ではなく、自分が王様として威張ることができる場と勘違いして、チーム内を荒らし好き放題やった。

 

大人同士が、陰口を言い、時には面と向かって悪口を言い掴み合いのケンカもしてた。

子供たちが野球を楽しむはずのチームは、いつしか大人たちの意地の張り合いの場所となり、

なんとなく、そんな状況を理解した子供たちは、とにかく気を使わなければいけなくなった。

 

そして、この人以外にも、今思えば「?」な事がたくさんあった。

私は、中学一年生の時に肩を故障してボールがまともに投げられない時期があった。

そんな私を、このチームのコーチ陣は冷遇した。

「普通は、隠してでも通常練習に参加するものだ」

「ボールが投げられないなら、いる意味がないから帰れ」と

 

あと、遠征先からバスで帰る途中、雨が降り出してバスが混んできた際に

「世間の皆様に迷惑がかかるから」と、バスから降ろされた事もある。

そして、それを言った自分だけは、そのままバスに乗って帰っていった。

 

これ、甲子園に出るようなチームとか、プロだったらまだ、ちょっとだけわかる話だけどね。

言っても街の少年野球で、こんなことがあったんですよ。

 

ただ、当時はまだまだ「スポ根」精神もあったし、

チームで勝ち負けを競う競技をやっている以上は、

厳しくされること自体が問題ではないと思っている。

 

 

では、何が問題だったかーーー

 

結論から言うと「教える側の人間性」につきる。

 

ジャンルはとわず、子供たちが参加する地域スポーツクラブの殆どは

アマチュアの人間が、ボランティアでやっていることだ。

その競技の経験がない父親から、元プロだった人間まで、様々な大人がいる。

これ自体は、とても有難く喜ばしいことだ。

 

そして昨今騒がれるスポーツ界における「パワハラ」は、この状況と表裏一体にある。

もともと、上下関係が厳しいとされるスポーツの世界で、

上が言うことに、下の人間が逆らうことは、基本あってはならないというのが通例。

 

例えば、普段はウダツの上がらない社会人でも、

週末の少年野球のコーチとしては、ある意味「神」のようなポジションになれる。

これは、とても快感だろう。

 

こうしたスポーツ界における上下関係の図式は、時に「勘違い」を生む。

私は偉い人間だ。。。と

本当に馬鹿な人間になると、週末だけではなく、一般社会の中でも「神」であろうとしてしまう。

日大のタックル問題なんて、まさにコレだろう。

何をしても許される。嘘をついても、学生に嘘をつかせても、自分を守るためには当然のことだと。

 

話が逸れていったが、何が言いたいかというと、

本来は「子供たちの為」と有志で集まったはずの大人たちが、

自我を主張しはじめ、いつしかそれは「自分の為」に変わってしまうことがある。

主役だったはずの子供たちが、いつしか「手下」のような感覚になっていく。

 

元巨自軍の肩書を持つオヤジは、途中からは完全に「親玉」気取りに変わった。

子供に野球を教えるはずだったコーチは、怪我を心配する事もなく「不要」と切り捨てた。

ちなみに、このチームの中には肩を怪我をして野球ができなくなった先輩もいた。

 

ただ、「楽しい」だけでスポーツをやることはできないのもわかる。

でも、「楽しい」がなけりゃ、特に子供の頃はスポーツなんてできない。

 

本当の意味で「子供」のために叱咤することや、厳しく指導することは絶対に必要だ。

でも、それはいつしか「大人自身の快楽」に変わっていく危険性も秘めているということを

指導者自身が自覚し、理解していなければならない。

こうした観点から、スポーツの指導者には、自分を第三者的に律する人間性が不可欠であると言いたい。

 

しかし、自分が当時のコーチたちと似たような年齢に近づいて思うのは、

大人って、それほど完璧ではないし、高尚な生き物ではない、、、ということ。

本当の意味で「子供たちの為に」と考えて協力し始めていても、

気がついたらダークサイドに落ちているケースは、

決して珍しくはないんだろうなぁ

「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」

去年、アニメーションでリメイクされたことで、

また、話題になりましたね。

 

私は元々の、映画の方が好きなんですけど。。。

これ、本当にイイです。。。

 

正直、最初に見たときにはあまり、グッと来なかったんですけど、

この映画が歳を重ねると、すごく良さを感じるようになってくるんですね。

本当にもう、岩井俊二さんは「ノスタルジー」やらせたら、凄いっスよね。

映像がもう、美しくて、懐かしくて、切なくて、温かくて。

 

子供でもない、大人でもない年齢の男女の葛藤。

そこを通りすぎてきた年齢だから、心が「ギュゥゥ」となるんでしょうな。

 

 

 
 

最近、何やら騒がしい新潟方面。

アイドルグループの運営を巡って、色々な議論が展開されているみたいだね。

 

ハッキリ言って、私個人としては全くもってアイドルに興味がないので、

どうでもいいっちゃ、どうでもいいんだけど

まぁ、一応娘を持つ親として思うことが無いわけではないので、少し考えてみた。

 

昨今のアイドルビジネスをみてて感じるのは、「アイドル」には、なりたけりゃなれる。

もっと言えば「自分はアイドルだ」と言えば、それはアイドルであるということ。

何が言いたいかというと、アイドルになること自体のハードルが極めて低いということ。

そこから、有名になるかどうかは別の問題として。

 

この風潮を作り上げた(いち早く取り入れた⁉︎)のが、教祖が率いる〇〇48やら〇〇46やら。

とにかく人員を囲う。大量に囲ったうえで、カネになりそうな娘を軸に活動をする。

世の中の風潮や流れをいち早く読んだ、素晴らしいビジネスモデルだと思う。

ただ、このビジネスモデルを実現するにあたって

この人たちは、一番肝心かつ、一番注力しなければならない点を疎かにしているのが解せない。

商材となるのは、殆どが「未成年の女の子」であるという点。

 

ハッキリ言って、あれだけの数の、難しい年齢でもある子供たちのマネジメントが、一筋縄で出来るわけがない。

当然のように、しょっちゅう色々な問題が起きる。

「個人の自主性」という言葉を、運営陣が都合の良い逃げ口上を使っている事が多くみられるが、

そもそも、責任を取るだけの覚悟もなく未成年の子供たちを使ってビジネスをしようとする思考に腹がたつ。

確かにアイドルである事は「自分で決めたこと」「本人の自由」ではある。

しかし運営陣はコレを逆手に取って、問題をやり過ごしているようにしか見えない。

将来どうするかもわからない子供達を、一見すると華やかな「アイドル」という形に仕立て上げ、

問題が起きれば「知らぬ存ぜぬ、本人が決めたこと」とな。

こうゆう大人の姿勢に、子を持つ親としてはハラワタが煮えくり返る思いだ。

 

 

そしてもう一つ大きいのが、バカなファン。

そもそも、なんでこんなアイドルビジネスが成立するのか?

いい歳コイた大人が、金を投じるからよ。

ファンは問題が起きた時に当然、運営陣を批判する。

でも、私に言わせりゃアンタらも同罪よ。

14-15くらいの子供に、完璧なアイドル像を求めるか?

自分が、それくらいの年齢だった頃何をしてた?

社会的にまだまだ子供とされている娘たちに、

何よりも「誠実で美しい存在」である事を求める。

 

それは無理だよ。

 

喧嘩だってするし、嘘もつくし、異性に興味もあるし、そろそろセックスも覚える。

 

でも、これは言っても当たり前の成長なんですよ。

 

ここで、前半の話に戻るんだが、

だからこそ「アイドル」は特別な存在であるべきだと思うし、

誰でもなれるようなハードルの低い職業であってはならなかったんだ。

 

裏のことや、本当の事は知らんよ。

でも、その「誠実で美しい存在」を演じきることは、簡単なことではない。

だからこそ、選ばれし人だけが、それを支えるマネジメントの元で「アイドル」という役割を担う。

みんなで協力して、創り上げるんですよ。

 

「会いに行ける」だかなんだか知らんけど、マネジメントが追いついていない以上、

これは、ただただ若い女を甘い言葉で誘う悪徳ビジネスとなんら変わらない。

子供達が体を張ってキモいファンから稼いだ金は、

ブタどもの「うまい飯」「高級外車」「ブランドスーツ」「港区の家」に変わるだけよ。

 

ファンも運営側も、もういいかげん子供を巻き込んで騒ぐのはやめませんか?

このブログでも野球ネタが多いことからも、御察しのとおり私は野球は好き。

 

好きだからこそ、ただ楽しく見ているだけでは済まないこともある。

「なんでや?」と思うプレーがあると、どうしても引っかかる。

 

ファン同士の会話の中で、こういう話をすると必ずといっていいほど

こういうセリフを吐くやつがいる。

 

「それは結果論」

 

まぁね、具体的なシチュエーションを挙げるとめんどくさいから

少しわかりづらい話なんだけど、

野球に限らず、私はなんでも「結果論」ではモノを言わないことには気をつけている。

 

結果が悪かったから・・・という点で批判は絶対にしない。

 

ただ、ここがわかりづらい点なんだが、

批判をするのは「結果が悪かった」時ではあるんだ。

 

要はプロセスの段階で「?」は確実にあって、

結果が悪ければ、そこに立ち返り検証する。

良かったとしても、結果が出てるからこれでOKではなくて、

それは、あくまで「結果オーライ」でしかないと考える。

 

「あの時こうしていれば、成功した」

「あの時こうしなかったから、失敗した」

は似てるけど全然違う。

 

こういうことが分からない人は、

なんでもかんでも「結果論」として片付ける。

「結果がよけりゃ文句言わないのに」と。

 

そう考えているうちに「結果論」という言葉に別のものが見えてきたんだ。

それは、失敗や結果を残せなかったヤツの一番都合のいい「言い訳」。

 

プロセスを見てないから、疑問に感じることがない。

そうすると、物事の良し悪しを結果でしか判断できなくなる。

 

本当の意味で「結果論」なのか否か、その判断が正しくできない人こそ、

「結果論」しか言わない人間であると言える。