迂遠な偽論 -3ページ目

興味

最近、久しぶりにパソコンで日本語を書いていて長く書きたいと思ったのでこっちに。

最近つくづく思うのは、私の通う立命館大学の小集団授業って偉大というかすごい重要だなということです。

特に、そう思うのが、毎週600wordのレポートを書く授業。週替わりでテーマが与えられて、そのことについて調べて…という授業と、一つの新書を古典として読み、事象を理解する授業です。たしかに、二つとも能動性が求められる面倒と言えば面倒な授業です。じゃぁ、なぜこの授業が私にとってすごいことなのか。

前者は自分の興味を持っていない分野についての若干の知識を半ば強制的に与えてくれるものです。

たぶん、革命とか水の自給率とか、今を動かすものについての知識とか、この授業が無かったら持ちえなかったと思います。

関心を学びに変えるのが大学だけど、何がその「学び」に影響するか分からない。歯牙にもかけなかったことが実は大事かもしれない。

カレーに隠し味として、チョコレートを入れることもあるように、真反対のことが役に立つって多々あると思います。

でも、チョコが嫌いなら、もしくはチョコを知らないなら、カレーに入れようって発想は出ないです。

前者は、そういうきっかけ作り場、ヒントの素を得る場としてすごく貴重だと思います。


後者は自分の興味についてしっかりと理解を深めるものだとおもうのです。

今は、いじめについての本、森田洋司氏が著した「いじめとは何か 教室の問題、社会の問題」という本を読んでいます。

なによりも、1人で読むだけでなく毎週、全員が自分の抱いた感想や疑問を述べ、その疑問について話し合うということが、重要だと思います。

読書の目的は、まず理解することとトレースすること。著者の考え方を自分のものにすることです。そして、そこで得た考え方を用いて自分の経験や統計と照らし合わせて、自分の意見を作る。

これを果たすのに、他人の持った著者への疑問はとてもいい反省材料であります。言い切ります。

その疑問を解決するに能うだけの意見を導き出せていないことに気付けれるからです。そういえば分らないなと、自分の読み込みの甘さも指摘してくれる、非常に有意義な時間です。


この二つの授業について書いて結局、何が言いたいか。

自分よりもはるかに多くの物を見てきた人や、一つのことを詳しく見てきた人が与えてくれるカリキュラムに無駄なんてない、ってことです。

まぁ、多くの物も見てなければ詳しくも見てないような若造が言う言葉じゃないかもしれないですが。

最後に。役立たないのは、役立たせる意識が無いから。

なにかに役立つだろうじゃなくて、何かに役立たせようという思いを持って、日々の時間を過ごせれたらなと思います。

イライラする

仕事が二つ・三つ一緒に押し寄せてくる上に、大学のゼミ専攻の書類も書かないとアカンし、授業のレポートも書かないとだめ。

まじで、キャパの半分以上埋まってる。一気にできるキャパは超えてるし。

恋愛で悩み気味やし。

中途半端でうっとうしいし、認めよう。恋心を。

あの子がすきやと。

だからって、イライラが減るわけじゃないし、むしろイライラは増すけど。

とにかく、やることやろ。

肥溜になるならまだしも、こんなきもちが栄養になる変わり者はおらんやろうし、
あんまこんなこと書きたくないけど、たまにはこんなことにもここを使わしてくださいね。

すぐに一本書くし。

うん。

本気でCHARAの物まね練習します