タイトル 荒野の渡世人

公開年

1968年

監督

佐藤純彌

脚本

石松愛弘

主演

高倉健

制作国

日本

 

1963年にセルジオ・コルブッチが監督を務め、ロバート・ミッチャムの息子ジェームズ・ミッチャムを主役にして「グランド キャニオンの大虐殺」という西部劇がイタリアで制作され、これがマカロニ・ウェスタンの最初と言われている。これ以降、マカロニ・ウェスタンは本家アメリカの西部劇とは異なり、容赦のないゴア描写や独特の泥臭さで人気を集め日本でも60年代半ばから人気に火が付き、数多くの映画が公開された。ただ西部劇の人気は世界的に高く、イタリア以外でもドイツや東欧、そしてインドなどでも作られる事態になる。こうした事に目を付けた東映は、日本でも西部劇を作ろうと思い製作されたのが本作。タイトルは「荒野の渡世人」となっているが、別に主人公はばくち打ちではなく、何故このタイトルになったかは不明。内容から「荒野の侍」の方がしっくりいくのだが。

志村喬の出番はここだけ。実に勿体ない

 

アメリカロケは金がかかるせいか、本作ではオーストラリアでロケを敢行。ただ、ミートパイ・ウェスタンと呼ばれる西部劇がオーストラリアでも作られていて、出演者の大半も現地の俳優達だが、ヒロインのジュディス・ロバーツを除いてほとんど無名の俳優ばかり。そして、日本で活躍する外国人俳優オスマン・ユセフやテリー・ファンズワース、マイク・ダーニンらが出演しているのは、俳優とのコミュニケーションに難があったからだろう。恐らく監督の佐藤純彌を始め日本のスタッフで英語が出来る人はほとんどいなかっただろうから。その為、外国人キャストの演技は総じてひどいが、これは細かい演技指導ができないからで仕方のない事だ。

「シェーン」のオマージュなら「遙かなる山の呼び声」の方が完成度が高い

 

映画の冒頭で志村喬演じる高倉健演じるケン(紛らわしい)の父親が、20年前にアメリカにやって来たものの、病気で残った侍という背景が紹介されるところから始まる。その後、一家はならず者に襲われ、志村喬は殺され健さんも殺されかかるが、母親がかばって何とか生きながらえる。このシーンから突っ込みどころ満載で、健さんほぼ無傷なのにならず者はろくに調べもせずにその場を立ち去る。それに志村喬が20年前にアメリカに来て、子供が出来たのならこの時の健さんは19歳以下となるはずだが、当時40手前の健さんにそれはきついというもの。それにどう見てもハーフに見えない。ここは、子役を使い子供だからならず者は見逃したという風にして、それから成長した建さんの復讐劇にすればよかったのだが、本作の脚本家も監督も、物語の整合性よりも健さんがかっこよく描かれる様さえ取れればよいと思った様だ。

ちなみに本作では外国人キャストもすべて日本語に吹き替えられているが、健さんも台詞と口の動きがあっていないので、現地では英語で話していたようだ。さすが!と言ったところだが、それなら監督に英語が分かるものを起用しろよ、と言いたくなるほど本作の外国人キャストの演技は酷い。

復讐の旅に出たケンは途中で、牧場主・マービンと知り合い彼の牧場で働きながら、拳銃の手ほどきを受ける。やがて、仇のひとりであるビリはいかさまポーカーで、私刑にかけられようとしていたところをマービンが救い出す。実はマービンはビリの父親だったのだ。そこでマービンはビリにケンとの決闘をするように勧めるが、必死に命乞いをするばかり。更に卑怯な手を使い返り討ちにしようとしたビリをマービンは射殺する。

マービンからならず者の1人、フランコが大牧場主となっており、妻・ローザと息子・マイクという家族をもうけている事を聞いたケンは、素性を隠して牧場の従業員となる。ケンに気づいたフランコは、街の酒場での決闘を求めるが、酒場にダンカンとチェックが待ち伏せをしていた。その罠を見破ったマービンはおとりとなって殺され、その隙にケンはダンカンとチェックを倒す。マービンを殺され怒りに燃えたケンは、フランコを射殺。その事からマイクはケンを激しく憎むようになりケンに手傷を負わせた。ローザの手当てで回復したケンは、フランコが自分の仇であることを告げる。この奥さんは、あまり亭主が好きでない様子で、亭主が死ぬと早速ケンによろめいている。その頃、最後の復讐相手で郡長に出世したカースンが、ケンを狙い暗躍を始める。

「お母さん。ケンによろめいちゃったの」とは言えないよね

 

日本で西部劇が作れないかと言えばそんな事はなく、原作・山川惣治で作画・川崎のぼるによる「荒野の少年イサム」や松本零士の「ガン・フロンティア」等、人気となった作品も多い。また、日活の無国籍アクションや東宝の岡本喜八による「独立愚連隊・シリーズ」等は、西部劇の要素をふんだんに盛り込みつつヒットさせている。ただ、東映が得意とするのは時代劇と任侠映画等、日本の土壌をたっぷりと吸収した義理人情むき出し作品ばかり。その点で、西部劇に一番むいていない会社が手掛けたといっていい。本作にその弱点は随所に出ていて、ビリにフランコなど復讐相手にその肉親が登場して人情が絡みことで、カタルシスを阻害している。ただ本作はそうした要素ばかりでなく、物語に整合性が取れていないのが最大の問題。それが顕著に表れるのが、終盤になってからで殺人罪に脱走までしながら、保安官はケンをローザに預けたまま捕まえようとしない。またそのローザも最初はケンに残るように言いながら、その次のシーンでマイクがまだ復讐心を捨てていないのを見て出ていくように言ったり、無茶苦茶な展開になっている。保安官がカースンを嫌っているとか、ケンに好意を持っているとか言った事があれば納得できるが、そうしたキャラの深堀は全くされていないから、見ていると粗筋を見させられているような気がする。それにせっかく居合の達人という設定なのに、終盤まで日本刀を握るシーンが無く、その終盤もあまりカッコいい使い方がされていないのは、何とも勿体ない。

ラストは明らかに「シェーン」のパクリ。制作側はこれをやりたかったのだと思うが、結果ここだけ浮いてしまっている。不評だったらしく、結局これ1作で終わってしまったが、ちゃんと西部劇のノウハウを学び、かつ日本人としての特徴を生かした設定を思いつけば、伊丹十三いわく「ラーメン・ウェスタン」がこの頃花開いたかもしれない。